文学

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11. 平凡 1

   四、「平凡」  「平凡」は四迷が「其面影」迄の研究で獲得した思想を、当時最盛期を迎えていた自然主義に対する批判として展開した作品である。自然主義の批判者として日本のリアリズムの創始者である四迷ほどの適任者はいなかったしその後も「平凡」を越える自然主義批判は現れなかった。  四迷はこの作品についても結局サタイヤになってしまい失敗だと言っている(1)。四迷の意図と違った形式になった点でも、批判が十分には展開されなかった点でも「失敗」であった。批評がこの言葉を手掛かりに見苦しい小理屈をこねているのは言うまでもないが見苦しさの紹介はしない。我々は四迷の基準からすれば失敗であったこの作品が日本文学史の発展上果たした役割を分析し、「浮雲」や「其面影」を描いた厳しい精神だけが実現できる自由で軽妙なサタイヤを楽しむことにしよう。自然主義作家の思想と行動は悲劇として観察するにはレベルが低すぎる。四迷も自然主義作家を、下らぬことを大げさに書さ散らすだけの無能な文士と考えていた。彼らの悩みは主観的に深刻であるほど滑稽になる。だから本来サタイヤがふさわしい。  『平凡』かね。いや失敗して了ったよ。...
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10. 其面影 3

 哲也は支那行の解決策を小夜子に拒否され、身をひかれたことで希望を失い自暴自棄になった。しかし、これも出世のための養子縁組の条件で与えられた必然の中にあり哲也の高度の精神性は保たれている。この必然の帰結として大陸で荒廃した生活をしながら哲也は最後の総括というべき批判を受ける。この批判も四迷が繰り返し展開してきた内容であるとはいえ合理的で見事である。葉山は哲也に「末はどうにかなる見込があるのか」(376頁)と問い、勝利者の善意でその不心得をさとす。俗物である葉山に、荒廃した生活をする哲也に対する説得力ある批判をさせるには、背後の必然性を知り哲也の正しさを確信していなければならない。あの漱石でさえ自分が肯定的と信ずる人物が、俗物達を批判し説得する形式での小説が読者の精神をひきあげると信じ、長年抜け出すことができなかった。  葉山には出世のチャンスを棒に振ったのが小夜子に対する愛情のせいだと見えた。今また小夜子との関係が絶たれたことでやけになっていると見える。哲也が女との人情ばかりにかかずらわっている軟弱な男に見える。  「例の失恋の結果といふものか…」 「何だたかが女一匹思ふやうになら...
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9. 其面影 2

 このように原因を「愛」と考え「愛」の上での解決を求める小夜子は、哲也が唯一の解決と考える支那行きを「ぢやまあ体よく逃げるのですねえ」(353頁)と批判する。時子と哲也の心が問題であるから、時子の了解が得られなければ二人の愛情は道義にもとるのであるし、哲也の心に未練のないことがはっきりとしなければ支那へ行くことは問題を残すだけで解決ではない。この二つの条件が満たされることはありえない,--このような関孫の上に小夜子への愛情がある--のだから、小夜子の場合「死ぬより他にないじやありませんか」(355頁)という結論になる。  四迷は小夜子の決意を「自分とても見込みがあるわけではなく、唯如何にかなるだろうで其日を送つているのであれば、況して愛ばかりを力に世を渡る女の身にしては嘸ぞ心細い事であろうと思うと不憫で堪らなくなる」(355頁)と深く理解し、情死というものを一概に愚とすることの薄っぺらさを指摘した上でなお「突つめた小夜子の言に深く動かされぬではないがさてどういうものか其気になぬ…バカバカしいように思われる」(356頁)といかにも彼らしく書いている。  四迷は文三や哲也の行動を常には...
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8. 其面影 1

   三、「其面影」  四迷が再び小説を書くようになった直接的原因は経済的困難である。彼が再びイデオロギーの世界に帰り成果を残してくれたのは我々にとって幸運であったが、四迷にとっては実践活動ほどには気乗りのしない仕事であった。第十一回で「大分危ふくなった」(第七巻16頁)と書き、「十五、五回書いたばかりで忽ち感興が去つてしまひ、閉口致居候」(第七巻343頁)と書いている。  「浮雲」から「其面影」への十七年間に文三は大学講師の哲也に替わり、小夜子という理解者もいる。しかし文三と昇の対立と哲也と葉山の対立の社会的必然は変わっていない。人物の配置が確定して展開がはじまると運命が「浮雲」と同じ方向に収束するのが見えてくる。職を得ても、愛情を得ても、「浮雲」の必然性を克服できず、哲也の孤立化がリアリティとして浮び上ってくるのが四迷の作家的才能である。彼は「浮雲」から十七年を経ても「浮雲」を質的に越える新しい主題、題材を発見しておらず、そのために自発的には文学に復帰しなかった。しかし、もともと小説家として天性の才能に恵まれている四迷は「其面影」にも才能の命ずるままに全力で取り組み「浮雲」以来...
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7. 近代的自我史観の批評 2

 「浮雲」の「恋愛的苦悶」とは、個別問題の社会的本質が顕在化しておらず、一般的解決の方法が発見できない、ということであった。近代的自我史観の言葉を借りれば、官僚機構と個人の関係は「自由主義の圧政家」や非職という役人の生活現象としてしか発見できず、官僚機構のもとで官僚機構の政策によって発展しつつある経済法則によって分解されつつある「浮雲」的人間関係は、私的な「恋愛的苦悶」にすぎず、官僚機構とは無関係に見えるということである。四迷はこのような状況における人間関係を描き、まったく私的に見える「恋愛的苦悶」が資本主義の発展の結果であり、その解決も資本主義の一層の発展であり、この発展の中で生まれる解決の方法を発見すべく、道徳的批判を捨てた。こうして現実が生み出す解決策の発見の可能性、政治との一致、官僚批判へと高まる契機を獲得し得た。  近代的自我史観のように、個別問題の社会的分析を捨象すれば、官僚機構に対する批判はまったく無内容になる。政治的批判は個別問題との関連を持たず、個別問題の批判は政治性を持たない。「恋愛的苦悶」の契機と官僚機構に対する批判への契機とに分離したことによって、この両者の一...
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6. 近代的自我史観の批評 1

   C 近代的自我史観の批評  中村氏の批評は私生活を舞台にしている。近代的自我史観の舞台は歴史である。だからここでは「浮雲」の分析を歴史的側面から補足することになる。  この小説の画期的な新しさは、「条理」が大切だという形での近代的要求をひそめていたため、体制がわとその秩序から余計物として疎外されて苦しむ孤独な一知識人文三を濃密なリアリティにおいて造形した、というところにある。時代にたいする二葉亭の鋭い批判的対立とそれによる内面的緊張が、このような苦悩する文三への共感と批判とによるイメージを活気あるものにするとともに、文三を苦しめるがわの具体的人間像とその関係を、小説的な活気ある展開においた。近代的人間の鋭い自覚的な要求の立場から「人生問題の全般的」な検討をめざしたこの作家は、多くの作家が現象の海に溺れまたは波の表面をただよったのに対して、その底にひそむ深い真実を追及し、まったく新しいイメージと形象をもった「浮雲」によって近代文学を生誕させるとともに、そのごの日本近代文学の発展の基本的な筋道を開いたのである。 (小田切秀雄「二葉亭四迷」岩波新書119頁 1970年)  四迷の...
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5. 中村光夫氏の批評 2

 「浮雲」はこうして何を現実的と考えるか、現実とは何かという問いを近代文学に係わるすべての人々に問いかけ、昇的立場に立つのか、文三的立場に立つのかを問い、文学評価の階級性の試金石となっている。  商品経済の発展は、園田家に進入する過程ですべての人々に各々の立場にふさわしい歴史的果実をもたらしている。文三に与えられるのは現実の本質的諸関係を認識する能力である。この流れの中で道徳的批判の立場に止まることは無力であるだけでなく反動的であろう。文三は昇に対抗する現実的力を得ておらず、--「風が悪い」と四迷は書いている--だからこそ昇は露骨に嘲笑するのであるから、ただ我慢しておれはよい。力関係がかわらないかぎりこの種の論争に勝ち目はない。「なまじっか此方から手を出しては益々向ふの思ふ坪に陥って玩弄されるばかり」(第一巻84頁)である。多少とも批判意識や自尊心のある人間なら昇の嘲笑に対する道徳的反論の無意味を感じとり、文三の心情を理解するだろう。明らかな負け=我慢以外はすべて昇を喜ばす無駄なあがきである。負けが必然である時は負けであることを知っていなければならない。道徳的批判は負けが必然である時...
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4. 中村光夫氏の批評 1

b 中村光夫氏の批評  「浮雲」がすぐれた作品であることは歴史によってすでに判定されている。批評の役目は時間による判定を言葉による判定に翻訳し、読者の直観によるアイデアの把握を理論的把握によって補足することである(1)。    (1)従来の批評は「浮雲」を失敗作と結論づけている。歴史の判定に異議をさしはさむ勇気は敬意に値するがこれも実は歴史がしつらえた役所である。「浮雲」と批評の関係に、歴史が自己を織る巧みな技を見ることができる。  アイデアの論理的把握とは、対象の基本的矛盾を発見し、その矛盾の発展が描く軌跡を規定することである。しかし、すべての対象は無限の対立を内包している。例えば「浮雲」に封建的と近代的、旧思想と新思想、エゴイズムとヒューマニズム、善と悪、アポロ的とデイオニソス的、男と女、等々の対立を発見できる。また、対象も対象の部分も無限の側面を持つのだから、任意の対立を基礎にして作品の内容を一つの構造物に組立てるのも容易な作業である。したがって困難は、無限の対立の中から基本矛盾を抽出し、安易な主観的構成の誘惑を厳しく排除し、諸対立を基本矛盾の発展の契機として位置づける...
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3. 浮雲 2

 「浮雲」は、文三やお勢の運命を「意の発達・論理」に従って描いており、安易な主観的構成をしなかった。あらゆる個別的、偶然的解決を排除した構成によって、アイデア的=本質的解決だけを課題にしている。と同時にそのことによって、お勢の軽薄や文三の弱点の克服の方法も、唯一正しい歴史的必然の形式で写実されている。文三の破滅に破滅しか見ないものは、形(フオーム)の背後にある意(アイデア)を見ないのである。  文三は昇批判を維持しながら破滅する。四迷は破滅の一般的意義を描写し得た天才として文学史に残っているが、この意義を理解しない場合文三=四迷=破滅という従来の批評に共通な愚かしい結論に至る。四迷の場合作品分析の誤りが、「浮雲」の中絶や「浮雲」以後自分の文学的才能に否定的評価を下し文学から遠ざかった事実と重なって、四迷に対する誹謗中傷の域まで達しているので(これが批評の悪意でなく能力によることは後に述べる)四迷自身をこれらの批評から浄化しておこう。  四迷の文学史的意義は残された三篇にあるのだから、中絶自体に大きな意義を与えるのはもともとバカげている。中絶の原因は「浮雲」の内容にとっては偶然的であ...
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1. 小説総論

二葉亭四迷論 目次 はじめに 一、「小説総論」 二、「浮雲」 a、「浮雲」        b、中村光夫氏の批評        c、近代的自我史観の批評 三、【其面影」 四、「平凡」 はじめに  この批評は、日本近代文学の出発点である「浮雲」を日本精神史の一段階として規定することを目的としている。文学の生命をなす様々の芸術的特質や登場人物の個性には触れていない。いわば骸骨のような批評である。生きた芸術作品を冷たい論理の手で扱うこのようなやり方は非文学的とも思われようが、作品に対する敬意と考えることもできる。力強い内容を持つ作品だけがこのような扱いに耐えるのであるし、偉大な才能は読者の感性的な理解だけでなく理論的理解を求める権利を持つ。従来の批評も「浮雲」にたいしてはこのようなアプローチを試みてきた。芸術的特質や登場人物の個性を理解するために作品の理論的分析を必要とするほどの作品だけが、近代文学の出発点になりうる。  「浮雲」は、明治文学のみならず日本近代文学の全体を理解するための鍵となる作品である。作品分析には平凡な事実の細かな詮索が必要である。第一に、日本資本...
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