「祇王」は平家物語の中でも、後で挿入されたと見られる独立した作品で他の段に比べると長くまとまった作品である。シンプルな書き方であるが内容が深く複雑である。だから、是非古文で読む必要があり、古文としてそれほど難しくはないが、細かに読まないと深い内容を取り込めないところがある。そのために、古文をざっと読むために簡単に参照するために現代語訳をした。意訳をせず、古文にできるだけ近い形で意味を理解できるように訳している。
祇王
入道相国は天下を手のうちに握られたために、世の非難をはばからず、人の嘲りをも顧みず、不思議の事をばかりなさった。例えば、そのころ都に聞こえた白拍子の上手、祇王、祇女という姉妹がある。とぢという白拍子の娘である。姉の祇王を入道相国が寵愛されたため、妹の祇女をも世の人がもてはやすこと一通りでない。入道相国は母のとぢにもよい家を造ってやり、毎月米百石、銭百貫を贈られたので、家中が富み栄えること一通りでない。
そもそも、我が国に白拍子が始ったのは、昔鳥羽院の御代に島の千歳・和歌の前、これら二人が舞いだした事である。初めは水干に立烏帽子、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と申した。それが中頃から烏帽子・刀をのけて、水干だけを用いた。それで白拍子と名づけた。
京中の白拍子どもは祇王の幸いのめでたい様を聞いて、羨むものもあり、ねたむものもあった。羨むものどもは、「ああ、なんとめでたい祇王御前の幸いよ。おなじ遊び女であれば、誰でも皆あのようでありたいものよ。どうも、これは祇という字を名につけて、これほどめでたいのだろう。さて、我等もつけてみよう」といって、あるいは祇一とつけ、祇二とつけ、あるいは祇福・祇徳などというものもあった。そねむものたちは、「どうして名により字によるものか。幸福はただ前世の生まれつきであろう」といって、つけぬものも多かった。
かように三年ほどして、また都に名の聞こえる白拍子の上手が一人現われた。加賀の国のものである。名を仏と申した。年は十六ということであった。「昔から多くの白拍子があったが、こんな舞はいまだ見ない」といって、京中の上下の人々がもてはやすこと一通りでない。
仏御前が申した事は、
「わたしは天下に知られたけれど、今あれほどめでたく栄えておられる、平家太政の入道殿に召されないことが残念である。遊びものの習いなのだから、なんの差し支えがあろうか、こちらから参上してみよう」と、ある時西八条へ参った。
人が参って、
「今都で名の聞こえます仏御前が参りました」と申したところ、入道は、
「なんと、そのような遊びものは人に召されてこそ参るものだ。かってにおしかけて参ることがあるものか。その上、祇王がいるところへは、神ともいえ、仏ともいえ、参ることはならぬぞ。早々にでていけ」と仰せられた。
仏御前はすげなく言われて、やがて出ようとしていたが、祇王が入道殿に申したことは、
「遊びものがおしかけて参るのは、常の習いでございます。その上まだ年も幼うございますものが、たまたま思い立って参りましたのを、すげなく仰せられてお返しになるのは不憫でございます。私としてもどれほど気恥ずかしく、気の毒に思いますことか。わたしが身を立てた道ですから、他人ごととも思えません。たとい、舞を御覧になり、歌をお聞きにならずとも、御対面だけなさってお返し下されば、有難いお情でございましょう。ご無理でも召し返して御対面下さい」
と申したので、入道は、「そうか、そうか、そなたがそれほどまでにいう事であるから、対面して返そう」といって、使いを立てて召された。
仏御前はすげなく言われて、車に乗って出ようとしていたが、召し帰されて参った。
入道は座に出て対面して、
「今日の見参はあるはずではなかったが、祇王がなんと思うものか、あまりに申しすすめるので、こうして見参した。見参するからは、声を聞かずにいるわけにいくまい。今様一つ歌うてみよ」と仰せられると、仏御前は、「承知いたしました」といって、今様一つを歌った。
君をはじめて見るをりは 千代も経ぬべし姫小松
御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れ居て遊ぶめれ
とおし返しおし返し、三辺歌いきると、見聞する人々はみな耳を疑った。入道も面白げに思われて、
「そなたは今様は上手であったぞ。この分では舞もさぞかしよいであろう。一番見たい。鼓打ちを召せ」といって鼓打ちを召された。打たせて一番舞った。
仏御前は髪姿よりはじめて、みめかたちうるわしく、声よく、節も上手であったから、どうして舞もし損ずることがあろうか。心も及ばないほど舞ひきると、入道相国は舞を愛されて仏にこころを移された。仏御前は、
「これはいったいどうしたことでございますか。もともとわたしは、おしかけて参って、追い出されましたところを、祇王御前のおとりなしによって召し返されたのでございますのに、このように召し置かますなら、祇王御前の心を察しますと、はずかしゅうございます。草々に暇を下さって館からお出し下さいませ」と申すと、入道は、
「すべてその事はならぬ。ただし、祇王がここにいるのが気になるのか。その事であれば祇王を出そう」と仰せられた。仏御前は、
「それまた、どうしてそのようなことがありましょうか。一緒に召し置かれましてさえ、心苦しゅうございますのに、まして祇王御前をお出しなされて、わたし一人を召し置かれるのでは、祇王御前の心のうちが思われて、恥ずかしゅうございます。もしも後までお忘れでない事ならば、召されてまた参るといたしましても、今日は暇を戴きましょう」と申した。入道は、
「何としてそのような事があるものか。祇王、そうそうに出て行け」と、使者を重ねて三度までも立てられた。
祇王はもとより覚悟していた道であるが、さすがに昨日今日のこととは思いもよらない。急ぎ出る旨頻りに仰せられるので、部屋のうちを掃きぬぐい、拭きとり、塵を拾わせ、見苦しいものなどをとりかたずけて、出て行くことに定まった。一樹の陰に宿り、同じ流れの水を飲むだけでも、別れは悲しいのが世の習いである。ましてこの三年の間住みなれた所であるから、名残も惜しく悲しくて、かいもない涙がこぼれた。
そうしている事もできないので、祇王はようやくこれまでと思って出たが、去る跡の形見にもと思ったのか、襖に泣く泣く一首の歌を書きつけた。
もえ出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはではつべき
さて、車に乗って自宅に帰り、襖の内に倒れ臥し、ただ泣くより他のことはなかった。母や妹はこれを見て、「いかにやいかに」と尋ねたが、とかくの返事もしない。つれていた女に聞いて、そんな事があったと知ったのだった。やがて、毎月に届けられていた米百石・銭百貫も今はとめられて、仏御前の縁のものが始めて富み栄えた。
京中の上下のものは、「祇王は入道殿から暇を貰って出たそうだ。さあ会って遊ぼう」と、手紙を遣わす人もあり、使を立てるものもある。祇王はだからといって、今更人に逢って遊びたわむれる気持もないので、手紙を受け取る事もなく、まして使の者に応ずるまでもなかった。これにつけても悲しくなり、いよいよ涙に沈むばかりであった。
かくて今年も暮れた。明くる年の春の頃、入道相国は祇王のもとへ使者を立てて、「その後どうしているか。仏御前があまりに淋しそうであるから、参って今様をも歌い、舞などをも舞うて、仏を慰めよ」と仰せられた。祇王はとかくの返事もしなかった。
入道は、「なぜ祇王は返事をしないのか。参らぬつもりか。参らぬつもりならば、そのわけを申せ。浄海にもはからうべき考えがある」と仰せられた。
母のとぢはこれを聞くと悲しくて、どうしてよいかわからない。泣く泣く諭して言った、
「のう祇王御前、ともかくも御返事を申しなされ。そのようにお叱りを受けるよりも」というと、祇王は、「参ろうと思う道であれば、すぐに参りますとも申すでしょう。参らないものですから、なんと御返事を申してよいかわかりません。このたび召しても参らぬなら、はからうべき考えがある、と仰せられるのは、都の外へ出されるか、それとも命を召されるか、よもやこの二つの他ではありますまい。たとえ都を出されても、歎くべき道ではありません。たとえ命を召されもまた惜しむべき我が身でしょうか。一度いやな者と思われて、二度と顔をあわせるものではありません」といって、なお御返事を申さなかったが、母とぢが重ねてさとしたのは、
「この国に住む限りは、ともかくも入道殿のお言葉にそむいてはならぬことであると言うぞよ。男女(おとこおんな)の前世からの縁は今に始まったことではないのだよ。千年、万年と契ってもすぐに離れる仲もあり、かりそめのとは思っても添い遂げることもある。世に定めのないのが男女の中の常である。それなのに、そなたはこの三年までも思っていただいたのだから、またとないお情ではないか。お召しに参らぬからといって、命を失われるまでは、よもやあるまい。必ず都の外へ出されるだろうよ。たとえ都から出されても、そなたたちは年若いから、どんな岩や木の間でも過ごすことはたやすいであろう。年老い衰へた母も、都の外へ出されるだろう。慣れぬ田舎の住まいは今思っても悲しいことよ。どうか、我を都のうちで一生を終えさせてくだされ。それこそがこの世の孝行、あの世の供養と思うのだよ。」というと、祇王は、つらいと思った道であるが、親のいいつけに背くまいと泣く泣くまた出で立っていった、その心のうちは、まことにいたましくあわれである。
一人で参るのはあまりにつらくて、妹の祇女をも連れて行った。そのほかに白拍子二人、総じて四人が一つ車に乗って、西八条へ参った。前に召されていた所へは入れられずに、遥かに下がった所に座敷をしつらえて置かれた。祇王は、
「これはいったいどうしたことでしょうか。我が身に過ちはなかったのに捨てられたことでさえ辛いのに、座敷までも下げられる事のつらさよ。どうしたらいいのか」と思うと、人に知られまいと押し当てる袖の間からも、あふれる涙がこぼれた。
仏御前はこれを見てあまりに気の毒に思ったから、
「あれはどうしたことでしょうか、日頃お召しにならないところでもないのですから、ここへお召し下さい。そうでなければ、わたしに暇を下さい。出て行ってお会いしましょう。」と申したところ、入道は、「すべてそのことは成らぬ」との仰せであるため、力及ばず出なかった。
その後、入道は祇王の心を知りなさらず、
「どうであるか、その後(のち)何事もないか。さて、仏御前があまりに淋しげに見えるから、今様を一つ歌ってみよ」と仰せられたので、祇王は、参ったからはともかくも入道殿の仰せにそむくまいと思って、落ちる涙をおさえて今様一つを歌った。
仏も昔は凡夫なり 我等もつひには仏なり
いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
と、泣く泣く二返歌うと、その座に多く並んで座っておられた平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで、みな感激の涙を流された。入道も面白げに思われて、
「時節らしく感心に申した。この上は舞も見たいが、今日は他に障りのある事ができた。これからは召さずとも、常に参って今様をも歌い、舞なども舞うて、仏を慰めよ」と仰せられた。祇王はとかくの返事にも及ばず、涙をおさえて出たのであった。
「親の命にそむくまいと、つらい道におもむいて、再び悲しい目を見たことのつらさよ。こうしてこの世に生きているならば、またつらい目を見ることになりましょう。今はただ身を投げようと思うぞ」というと、妹の祇女も、「姉が身を投げれば、わたしも一緒に身を投げます」という。母とぢはこれを聞くに悲しくて、どうしてよいやらわからない。泣く泣くまた諭したのは、
「まことに、そなたが恨むのも道理である。そのようなことがあろうとも知らずに、教訓して参らせたことの辛さよ。そうではあっても、そなたが身を投げれば、妹も共に身を投げると言う。二人の娘たちに死に遅れて、年老い衰えた母が生きていても何にもならないから、我も共に身を投げようと思うぞ。まだ死期も来ていない親に身を投げさせる事は、五逆罪ではなかろうか。この世は仮の宿です。慚じても慚じなくても何でもない。けれども、永い闇の世に落ちるのは辛いことだよ。現世ではどうであったにしても、そなたが後世で悪道に行く事がどれほど悲しいことか」と、さめざめとかきロ説くと、祇王は涙をおさえて、
「なるほど、そうでありますなら五逆罪は疑いありません。それならば自害は思い止りました。こうして都にいるならば、またつらいめをも見るでしょう。今はただ都の外へ出ましょう」といって、祇王は二十一で尼になり、嵯峨野の奥の山里に柴の庵を結んで念仏して暮らしていた。妹の祇女も、「姉が身を投げるなら、わたしもともに身を投げようと約束しました。まして俗世を厭う気持ちで誰が劣るでしょうか」と、十九で姿を変え、姉と一緒に籠り住んで、後世を願うようになったのは哀れである。母とぢはこれを見て、若い娘たちさえ尼になる世の中に、年老い衰えた母が白髪をつけて何になろう、といって、四十五で髪を剃り、二人の娘とともに、ひたすら念仏を唱えて、ひとえに後世の往生を願うのであった。
こうして春は過ぎ、夏のさかりも過ぎた。秋の初風が吹いたのだから、星が会う七夕の空を眺めて、梶の葉に思うことを書くころであるよ。夕日の影が西の山の端に隠れるのを見ても、「日のお入りになるところは西方極楽浄土でありましょう、いつか我等もあそこに生れて、物を思わずに暮らしたいものだよ」と、こう思うにつけても、過ぎしころの辛いことなど思い続けて、ただ尽きせぬものは涙である。たそがれ時も過ぎたので、竹の編戸を閉じ塞いで、灯をかすかにかきたてて、親子三人念仏を唱えていたところに、竹の編戸をほとほととうちたたくものが現れた。その時尼たちは肝を潰し、「ああこれは、取るにも足りない我等が念仏しているのを妨げようと、魔縁が来たのであろう。昼でさえ人も尋ね来ない山里の柴の庵の内であるから、夜ふけに誰が尋ねようか。粗末な竹の編戸だから、開けなくとおし破る事はたやすだろう。いっそただ開けて入れようと思うぞ。それでも情をかけずに、命を失うものならば、年頃お頼み申している弥陀の本願を強く信じて、隙なく仏の御名を唱え上げようぞ。声を尋ねてお迎え下さるという仏様の来迎なのですから、どうして浄土に迎えて下さらないことがあろう。決して念仏怠りなさるな」と、互いに心をいましめて、竹の編戸をあけたところが、魔縁ではなかった。仏御前が現れた。
祇王が「あれはどうしたことでしょう、仏御前とお見受け致しますのは。夢でしょうかうつつでしょうか」といったところ、仏御前は涙をおさえて、
「かようの事申しては、今更らしゅうございますが、申さずは又、情けを知らぬ身になってしまいますから、事の始めから申します。もともと私はおしかけて参った者で、追い出されましたところを、祇王御前のとりなしによってこそ、召し返されたのでございますのに、女の身はふがいないことで、我が身を心に任せることができず、おし止められましたのはつらいことでございました。いつぞやまた、召されて参られて今様を歌いなさいましたおりも思い知らされたことでございます。いつかは我が身の上であろうと思いましたので、嬉しいとは少しも思いません。襖に又、『いづれか秋にあはではつべき』と書き置きされた筆の後を見て、まことに、と思いましたものです。その後は在所をどことも存じませんでしたが、このように姿を変えて、一所にとうけたまわって後は、あまりに羨ましくて、常々お暇をお願いを申したのですが、入道殿はまったくお取り上げなさいません。つくづく物を考えるに、この世の栄華は夢の夢、富み栄えて何になりましょう。人の身に生れることは難しく、仏の教えに会うことも難しい。このたび地獄に沈むならば、これから長い年月を何度生れかわっても、地獄から浮かび上ることは難しい。年の若さを頼むことはできません。老少いづれが先に死ぬか定まらない世の中です。出る息が入るのを待つこともできません。かげろうや稲妻よりなおはかないものです。一時の栄華に誇って、後生を知らずにいることが悲しくて、今朝お館を隠れ出て、こうなって参りました」と、かぶっている衣をうちのけたのを見ると、尼になっていたのであった。
「このように姿を変えて参りましたから、これまでの罪を許して下さい。許そうと仰せならば、共に念仏をして、来世は同じ蓮の上の身となりましょう。それでなお気持がすまぬのならば、これからどこへなりと迷い行き、どのような苔のむしろ、松の根にも倒れ臥して、命のある限り念仏をして、極楽往生の本懐をとげようと思います」と、さめざめとかき口説いたので、祇王は涙をおさえて、
「ほんとうに、あなたがこれほどに思っておられるとは夢にも知りません。憂き世の中の宿命なのだから、身の不運と思うべきなのに、ともすればあなたの事のみ恨めしくて、極楽往生の本懐を遂げる事がかなうとも思えません。今生も後世もいいかげんにしてやり損なった気持ちでいましたが、このように姿を変えて来られたので、日頃の私のあやまちは露塵ほども残りません。今は極楽往生は疑いありません。このたび日頃の願いをとげることこそ、何よりも又嬉しいことです。我等が尼になったことを、世に例のないことのように人もいい、我が身にもそう思いました。それは、尼になるのもあたりまえです。今、あなたの出家にくらべると、物の数でもありませんでした。あなたは恨みもない、歎きもない。今年やっと十七になる人がこのように、穢れた世を厭い、極楽浄土を願おうと深く思い入れなさるこそ、ほんとうの大道心だと思われます。私を導いて下さるありがたい人ですよ。さあ、共に往生を願いましょう」と、四人一所(ひとところ)に籠って、朝夕仏前に花香を供え、余念なく往生を願ったので、速い遅いこそあったが、四人の尼たちはみな往生の本願を遂げたということであった。
だから、後白河法皇の長講堂の過去帳にも、「祇王・祇女・仏・とぢ等が尊霊」と、四人一所に書き入れられた。人の心を打った事どもである。