中期哲学論集
哲学の改革のための予備的提言
将来の哲学の根本命題
肉体と霊魂、肉と精神の二元論に抗して
「哲学の端初」にかんして – 一八四一年 –
フォイエルバッハは哲学を認識論であると考えており、認識論の基礎は感覚論であると考えている。だから、哲学の端初は対象で言えば個別存在であり、認識で言えばそれを最初に受容する感覚である。
哲学史上、哲学は対象を持たない、哲学は存在を対象としない、この点で哲学は経験諸科学と区別される、と考えられていた。哲学はこのような特殊な学問であるために、哲学とは何か、哲学の対象は何か、さらには哲学の端初が何であるかが哲学自身の課題になっていた。フォイエルバッハはこの問題をまったく捕らえておらず、この問題を単純に否定しており、哲学史上の最も重要な課題を回避ないし解消している。
フォイエルバッハは哲学の端初について次の様に述べている。
「それ故に、非対象的なものを対象的にし、とらえることができないものをとらえることができるようにすること、すなわち或るものを生活の享受の客体から思想上の事物いいかえれば知の対象へ高めること–このことは絶対的な作用であり哲学的な作用である。そして哲学–知一般–は自分の現存在をこの作用に対して負うているのである。しかしこのことの直接的な帰結は、哲学の端初は知一般の端初であって、実在的な諸科学の知から区別された特殊な知としての哲学の端初ではないということである。」(p4)
フォイエルバッハは、非対象的なものと対象的なものを、生活の享受の客体と知の対象と解釈している。非対象的なものとは何かを空気の実例で示しているだけで、非対象的なものと対象的なものを哲学的に規定していない。当然非対象的なものとは生活の享受の客体であることを証明していない。
現実に存在していても知の対象となっていないもの、未だ知られていないものを非対象的なものと規定するとはあまりにも無内容である。これでは哲学の対象はまだ知られていないもの、知の外にあるものとなり、哲学は内容を持たないことになり、哲学は成立しないことになる。
哲学は対象をもたないわけではない。しかし、哲学の対象はまだ発見されていなかったために哲学は対象を持たない学問である、とされていた。フォイエルバッハはこれを小賢しく言い換えて、哲学は知の対象となっていない対象を知の対象とすることが哲学である、としている。
フォイエルバッハにとっては意外であろうが、「生活の享受の客体から思想上の事物いいかえれば知の対象へ高めること」とは哲学的課題ではない。哲学の対象は生活の享受の客体ではない。
どのような学問であっても、知の対象となっていない対象を知の対象とする。つまり、学問的に規定する。それは哲学でも経験科学でも同じである。フォイエルバッハはまず、無知から知へが学問の役割である、と、言うまでもない知の特徴を哲学の特徴としている。その上で、このことの直接的な帰結は哲学の端初は知一般の端初であって、哲学特有の端初ではない、と結論している。哲学の役割は未知の対象を知ることであると前提しているのだから、対象を学問的に規定する経験科学と同じである。
フォイエルバッハは知ることが知の端初であることを根拠にして哲学と経験科学を同一視している。つまり、フォイエルバッハは哲学も経験科学も対象を知る事である、と主張しているにすぎない。哲学史はこのことに気がつかなかったのではない。学問は一般に何かを知ることである。経験科学は知る対象がはっきりしている。
しかし、一般論だけを規定する哲学は対象が見つからない。対象が見つからないにも関わらず学問として成立している。この成立している学問は、他の学問のように具体的対象を持たない。だから、哲学の対象は一体何であるか、哲学は何を規定しているのか、が哲学史上の難問であった。フォイエルバッハはこの課題を知らないか忘れている。
フォイエルバッハは哲学が対象を持たない事、哲学が非対象的な学問であること、哲学が経験科学と違う特殊な学問であることの説明、つまり哲学とは何かを規定する難問を解くためにではなく、この難問を回避するために、まず、「対象的」の意味の通俗化から始めている。哲学で問題になる非対象性を未知の対象と解釈すれば非対象性を客観的に規定する難問は解消される。哲学の課題は、哲学が経験科学と同じ対象を持たないことを非対象性と前提とした上で、哲学独自の対象を発見することである。フォイエルバッハはこの課題がないことを哲学的に説明している。フォイエルバッハは哲学と経験科学の違いを否定している。これでは哲学史上の労苦は水の泡である。哲学と経験科学は同じ知であり同じ学問であると結論できれば、あとは経験科学とは何かという分かりきった規定を、退屈で無意味な一般論としてだらだらと書き並べる事ができる。フォイエルバッハの哲学の端初の規定は、哲学の通俗化の規定であり、哲学の否定である。
「なぜかといえば、もし哲学的知の端初と経験的知の端初とが根源的には一つの同じ作用であるならば、そのときは哲学は明らかに、直ちにあらかじめこの共同の根源を想起するという課題をもち、且つしたがって(科学的な)経験からの区別から始めないでむしろ(科学的な)経験との同一性から始めるという課題をもっているからである。経過のなかでは哲学は(科学的な)経験との同一性から分離するかもしれない。しかしもし哲学がこの分離から始めるならば、そのときは哲学は決して終端においても真実な方法で科学的な経験との同一性と親交を結ぶようにはならないだろう。(しかも人々は哲学が終端においては科学的な経験との同一性と親交を結ぶことを欲しているのである。)」(p5)
哲学と経験科学は知として同じであり、対象を認識することにおいても同じである。しかし、だから哲学と経験知は同じであり、哲学は経験との同一性から始める、とはならない。哲学は経験知とは内容が違い対象が違い、従って端初も違う。客観的世界を対象として認識することにおいてすべての学問は同じである。しかし、哲学と経験科学は対象が違う。つまり、客観的世界における対象が経験科学の対象と哲学の対象の二つに分離される。対象が哲学と経験科学の二つに分離されることをフォイエルバッハは知らない。客観的世界をこの区別において認識できていない。フォイエルバッハは哲学の対象とは何かを問うことなく哲学と経験科学は同じであると結論している。
哲学の端初の問題は哲学の対象の問題である。哲学の対象を問題にしないかぎり哲学の端初を規定することはできない。フォイエルバッハは哲学と経験との同一性から始めるとしているが、実際は経験の端初を問題にしているだけで哲学との同一性から始めているのではない。フォイエルバッハは哲学の端初を無視して、哲学の特別な端初はないものとして端初を論じている。だから、フォイエルバッハは哲学の端初は何かを問題にしながら、経験の端初を問題にしている。フォイエルバッハは哲学の課題を見逃し、逸らし、歪めている。この前提を根拠にするフォイエルバッハの議論はどのように展開しても哲学ではありえない。
哲学の課題は哲学と経験科学が異なる学問であることを明らかにすること、つまりは哲学とは何かを明らかにすることであるのに、フォイエルバッハは哲学の独自性を否定して哲学と経験科学が同じであるとしているのだから、哲学の端初は経験科学の端初である。フォイエルバッハは哲学の端緒の問題を、経験的意識ないし経験科学の端初とはなにかの問題に解消し、哲学の端初を規定する労苦から解放され、哲学から離れ、経験知を哲学として書きつらねる事ができるために労苦を重ねている。
フォイエルバッハは哲学を探求しているのではなく、哲学から解放される方法を探求している。だから、フォイエルバッハによってヘーゲルから解放される事は哲学から解放される事を意味している。
「哲学は終端において初めて実在に到達するのではなくて、哲学はむしろ実在から始めるのである。ただこのことだけが自然的な進行–すなわち事象にかなった進行・真実の進行–である。著者〔ライフ〕がフィヒテ以来の思弁哲学と調和して切り開いている進行が自然的な進行–すなわち事象にかなった進行・真実の進行–なのではない。精神が感官につづくのであって、感官が精神につづくのではない。精神は諸事物の終端なのであって、諸事物の端初なのではない。経験からの哲学への移行は必然性である。しかるに哲学からの経験への移行はぜいたくな恣意である。経験をもって始める哲学は永久に若いものとして止まっている。しかるに経験でもって終わる哲学は最後には老衰し、生活に飽き飽きし、自分自身のことに腹立たしくなっている。なぜかといえば、もしわれわれが実在をもって始め且つ実在のなかに止まっているならば、そのときは哲学はわれわれにとって永続的な欲求であるからである。経験は一歩毎にわれわれを見捨て、且つそうしてわれわれを思催へ追い返す。それ故に、経験でもって終わる哲学は有限であり、経験でもって始める哲学は無限である。」(p6)
フォイエルバッハが哲学の端初を規定するために持っている材料は、実在と精神と感覚である。哲学の端初は実在か、精神か、感覚か、と問いを立てている。フォイエルバッハの認識から実在の全体としての一者が抜け落ちている。実体とは何かを規定するのが哲学の課題であるのにフォイエルバッハの哲学には実体が消え失せている。
実在の全体の一者としての運動が哲学の対象であり内容である。この対象を発見できない場合哲学の端初を規定することはできない。経験科学の端初を哲学的に規定するのは余計な雄弁である。経験科学の対象は個別存在であり、存在が端初である。経験知の端初は感覚である。こんなことは論ずるまでもない。哲学は、個別存在が対象でなく端初でない学問であるからこそ、対象とは何か始元とはなにかが難問であった。フォイエルバッハはこの難問は存在しない、として難問を回避しているのであって、この難問を解決しているのではない。
経験科学は個別存在を対象としている。だから実在から始める。哲学は実在を対象にしていないから実在から始めるのではない。そのために哲学は対象を持たないとされていた。哲学は存在の全体を一者として、即ち運動体として対象とし規定する。存在の全体を一者として規定するとは、哲学における存在の全体は個別存在の集合としての全体ではない、という意味である。
したがって、哲学の端初は認識論の観点から言っても感覚ではありえない。存在の全体である一者を感覚で捕らえる事はできない。存在の全体としての一者は理性の対象である。存在の全体を一者として規定する哲学の端初は純粋有である。純粋有は運動の規定である。純粋有は存在ではなく、存在の運動でもなく、したがって感覚の対象ではない。
「経験からの哲学への移行は必然性である。しかるに哲学からの経験への移行はぜいたくな恣意である。」とフォイエルバッハは書いているが、フォイエルバッハは経験と哲学を規定しておらず、両者の違いと関係を理解していない。経験知の対象は個別存在であり、存在一般である。哲学の対象は一者としての運動である。一者としての運動は存在の普遍である。論理的にはこのような関係にある。しかし、フォイエルバッハは両者の論理的、哲学的関係に関心を持っていない。フォイエルバッハの視野には存在の全体、あるいは実体が存在しない。
最初の間違った前提に基づいて、哲学を通俗化した上で、贅沢な恣意だとか永久に若いといった雄弁を並べるのは哲学と関係のないおしゃべりである。フォイエルバッハの論文には哲学的な規定はない。フォイエルバッハの哲学は経験的な小知恵の集成である。
「もしこのような理由で自然が精神の土台であるならば、そのときは哲学の客観的に基礎づけられた端初・哲学の真の土台もまた必然的に自然なのである。哲学は自分の反定立–哲学の他我(Alter Ego)–をもって始めなければならない。そうでないばあいは哲学は常に主観的なものとして止まり我のなかにとらわれたものとして止まっているのである。何物をも前提しない哲学は、自分自身を前提している哲学・直接に自分自身をもって始める哲学なのである。」(p7)
これも同じ内容の繰り返しである。これは、経験知、経験科学の内容であって哲学とは関係がない。
自然が精神の土台であるか、精神が自然の土台であるか、は哲学的問題ではない。哲学も経験科学と同様に客観的世界の認識としての学問である。だから、対象は客観的世界であり、内容は客観的世界であり、哲学の土台は客観的世界である。問題は客観的世界を「自然」と規定し、「自然」によって客観的世界を代表し、「自然」を知の対象とし、知と自然、精神と自然、学問と自然を基本的な対立関係として設定することである。経験知ではこのような対立を設定できるが哲学にはこのような対立関係はない。フォイエルバッハは哲学の特徴を理解していないから、このことをまったく理解していない。
「哲学は自分の反定立–哲学の他我(Alter Ego)–をもって始めなければならない。」とはいかにも哲学的な文章であるが、知の対象は自然であると言っているにすぎない。ところが哲学の対象は自然ではない。フォイエルバッハは哲学を含めた知の対象は自然であると信じているから、「そうでないばあいは哲学は常に主観的なものとして止まり我のなかにとらわれたものとして止まっているのである。」と結論する。これはまったくの経験知であって哲学とは無縁の規定である。
フォイエルバッハにとって哲学の他我は自然である。このややこしい言い方は哲学の対象は自然である、という意味であるが、実際は哲学の対象は自然ではなく、哲学は自然をもって始める学問ではない。
フォイエルバッハにとっては精神=知=哲学=経験科学とその他我である自然しかないから、自然から始めない場合は哲学は主観から始めることになる。しかし、哲学史上で始元が難問になって来たのは、客観的世界を哲学的に認識する場合の始元とは何かである。哲学は自然から始めるのではない。哲学の対象は一者としての客観的世界である。その場合の始元は純粋有である。哲学が、他我=自然から始めるとするフォイエルバッハは哲学的な懐疑を見失っている。
フォイエルバッハが、「何物をも前提しない哲学は、自分自身を前提している哲学・直接に自分自身をもって始める哲学なのである。」と結論するのは、「何物」と「主観」を基本的な対立物と考え、どちらを前提するかを問題にしているからである。フォイエルバッハはこの「何物」と「自分自身」が何であるかを考察していない。
「何物をも前提しない哲学」の何物とは個別存在である。哲学は個別存在を対象としない。哲学は一般に存在を対象としない。しかし、哲学は主観、自我、自分自身を対象とするのではないし、それを端初とするのでもない。個別存在を対象とせず、個別存在を始元としない唯一の学問である哲学は、哲学自身から始めるのではなく、一者としての客観的世界の始元である純粋有を始元とする。
フォイエルバッハは客観的における基本対立である個別存在と一者としての全体の区別を知らない。一層抽象的に言えば、存在と運動の対立を知らない。客観的世界を最も抽象的に規定すると、存在と運動の対立になる。哲学史が求めていたのはこの規定である。
「ライフはいっそう詳細に「自我・純粋自我」を哲学の無前提な端初として規定している。」(p7)
としてフォイエルバッハはライフを批判している。ライフはフォイエルバッハと同等の対立物であり、フォイエルバッハが自己を肯定するための批判対象である。ライフとフォイエルバッハは相互に対立し肯定しあう関係にある。両者ともに哲学の内容に入っていない。
フォイエルバッハは「『自我・純粋自我』を哲学の無前提な端初として規定」するかどうかを問題にしている。しかし、一般にその学問が何であるか、何を端初とするかは、その学問の対象が何かである。そして、学問は一般に客観的世界を対象としており、客観的世界の認識である。この点では経験科学も哲学も同じである。しかし、客観的世界の何を対象とするかが経験科学と哲学は違う。経験科学は個別存在を対象としており、個別存在の違いによって経験科学の内容は違い分野の違う学問になる。
哲学は経験科学と違って個別存在を対象としない。哲学が対象を持たないとは存在を対象としない、という意味である。それが対象を持たないと考えられてきたのは、存在でない対象とは何かが発見されなかったからである。哲学は存在を対象としないが、客観的世界を対象としている。客観的世界は運動と存在に分離される。経験科学は存在と存在の運動を対象としており、哲学は存在の全体を一者としての運動を対象としている。
ライフもフォイエルバッハも客観的世界の全体を問題にしていない点で同じである。自我と自然の関係を論ずるのは経験科学であり哲学ではない。この区別を知らないと、どれほど議論を重ねても哲学の内容の規定に、したがって哲学の端初の規定に到達しない。自我と自然のいずれを端初とするかは哲学の課題とはまったく関係がない。
フォイエルバッハはこの非哲学的な観点からライフを長々と批判している。しかし、フォイエルバッハとライフの対立は哲学の外での議論である。自然と精神の関係の規定は哲学の内容にならない。この後の文章はすべて哲学的に無意味である。
(2013.12.17)
哲学の改革の必要 – 一八四二年 – (p17)
ここには哲学的内容は何もない。平凡な思想的演説である。(2013.12.17)
哲学の改革のための予備的提言 – 一八四二年 – (p29)
この著作は予備的提言であるから、ごく簡単にヘーゲル哲学を理解するために役立つ部分だけを取り上げる。
冒頭の、「思弁哲学の秘密は神学–思弁神学–である。」といった乱暴で間違った断定は批判に値しない。ヘーゲル哲学の神髄は論理学である。ヘーゲル哲学を神学と見なして論理学を投げ捨てるのは哲学の放棄である。そのことはヘーゲル論理学の内容によってのみ説明できる。一般にフォイエルバッハの証明なしの断定は理論的な価値のあるものではない。
●「しかるに思弁哲学における絶対者または無限者は、歴史的に考察されると、古い形而上学的神学的な存在者または非存在者–有限でない存在者または非存在者・人間的でない存在者または非存在者・物質的でない存在者または非存在者・規定されない存在者または非存在者・性状をもたない存在者または非存在者–以外の何物でもない、すなわち世界以前の無が作用として措定されたもの以外の何物でもない。」(p34)
■ヘーゲル哲学における絶対者または無限者は、古い形而上学の絶対者あるいは実体と同じである。神もまた絶対者として想定されている。絶対者あるいは無限者は存在ではないことを意味している。存在は有限であり規定されているからである。哲学は無限者の規定を求めてきた。
フォイエルバッハは、このことから、絶対者は世界以前の無である、としている。フォイエルバッハにとっては有限な存在でないものは無である。
ヘーゲルの絶対者は論理学である。ヘーゲル論理学はカテゴリーの規定の体系である。この論理学が無であるはずがない。ヘーゲル論理学の規定の弱点は経験的存在的内容を持つ事であり、絶対的抽象へと純化していないことである。フォイエルバッハは存在でないものは無である、と信じている。存在でないものは無ではない。つまり、存在に対立するのは無ではない。存在と対立するのは運動である。
●「神学の本質は人間の超絶的な本質であり、人間の外部に措定し出された〈人間の本質〉である。へーゲルの論理学の本質は超絶的な思惟であり、人間の思惟が人間の外部に措定されたものである。」(p35)
■神学の本質が人間の本質であれば、神学の本質は人間の本質として規定されねばならない。神学の本質は人間の本質である、は何ら規定ではない。
フォイエルバッハは、ヘーゲルの論理学が超絶的な思惟であるとした上で、超絶的とは人間の思惟が人間の外部に措定されたものである、としている。フォイエルバッハはこの種の無内容な同語反復を多用している。ヘーゲル論理学に限らず、すべての学問は人間の思惟が人間の外部に措定されたものである。その措定された思惟の内容は客観的世界の内容である。
ヘーゲル論理学が超絶的であるのは存在の規定を超えるからである。ただし、十分に超絶的でないのが弱点である。フォイエルバッハの思惟は存在を超える事ができない。存在を超えない思惟は哲学ではない。存在を規定するのは経験科学である。
●「形而上学は秘義的な心理学である。あたかも質が感覚なしにも何ものかであり、感覚が質なしにも何ものかであったかのように、質をそれだけ引きはなして考察し、感覚をそれだけ引きはなして考察し、両者を特殊な諸科学に分裂させることは、なんという恣意であり、なんという暴行であろう。」(p35)
■論理学においては、カテゴリーである質は感覚なしの何ものかである。カテゴリーは存在の規定ではなく感覚の対象ではない。カテゴリーを存在と結びつけて考察し規定してはならない。
フォイエルバッハは質をごく経験的な意味で個別存在の属性と考えている。フォイエルバッハが考える質は感覚の対象であり、感覚によって捕らえられる存在の属性である。たとえば、硬い、熱い、重い、明るい、等々がフォイエルバッハの質であり、この質は感覚から引き離して考察することはできない。
ヘーゲルはカテゴリーを純化して体系化したが、それでも質のカテゴリーの内容は個別存在の抽象体である定有の属性と考えている。この点でヘーゲル論理学の内容は経験的であり純化していない。
論理学における質は存在の属性ではなく、感覚の対象ではない。カテゴリーはすべて運動の規定である。しかも、個別存在の運動ではなく、存在全体を一者として規定する運動の規定である。カテゴリーとしての質は個別存在の属性とはなんの関係もない。質と個別存在、質と感覚を引き離すことは恣意でもなく暴行でもない。この分離こそが哲学である。
●「有限者の真理性は絶対的哲学によってもっぱら間接的な様式または逆の様式で言表されている。もし無限者が存在し真理性と現実性とをもっているのはただ無限者が規定されるばあいだけであるならば、すなわちもし無限者が存在し真理性と現実性とをもっているのはただ無限者が無限者として措定されるのではなくて有限者として措定されるばあいだけであるならば、そのときはそうだ真実には有限者が無限者であるのである。」(p40)
■この問題はヘーゲルも解決できなかった難問である。無限者が真理性を持つためには無限者が規定されなければならない。ヘーゲルがこれを強調している。だからヘーゲルは無限者が有限者を措定すると考えた。フォイエルバッハはこのことから措定された有限者が真理性であり、したがって有限者が無限者であると単純に断定している。しかし、有限者は無限者ではない。ヘーゲルは有限者をも無限者をも規定していない。
存在は規定されており限界を持っている。だから有限者の否定である無限者は規定を持つ事ができず限界を持つ事ができない。規定と限界を持つならば存在であり有限者である。
存在が無限者でなく有限者であるのは、存在が恒常的、永遠的なものではなく生成消滅するからである。有限とは生成消滅を意味している。存在を否定し有限にするのは存在の変化=運動である。存在の有限とは存在の否定であり存在の否定とは存在の運動である。すべての存在は運動しており否定される。運動を免れる存在はありえない。
したがって、存在の否定者である運動が無限者である。無限者である運動は規定することができる。運動の規定は存在の規定ではない。無限的運動が具体的にどのように運動するかを規定するのが論理学である。
したがって、無限者は無限者において規定される。運動を規定すると運動が具体化される。しかし、運動の規定は存在者の規定に移行するのではない。運動の規定である質は存在の質を意味しない。規定された運動が無限者であり絶対者である。無限者は存在として、有限者として措定されるのではない。
●「哲学の端初は有限なものであり、規定されたものであり、現実的なものである。無限なものは有限なものがなければ全く思惟されることができない。あなたは或る規定された(一定の)質のことを思惟することなしに質を思惟したり定義したりすることができるであろうか? したがって規定されないものが最初のものなのではなくて、規定されたものが最初のものなのである。なぜかといえば規定された質とは現実的な質以外の何物でもないからである。思惟された質には現実的な質が先行する。」(p41)
■哲学の端初は規定されたものであり現実的なものであるが、有限なものではない。哲学の内容は無限者であり無限者の端初もまた無限者である。
フォイエルバッハは「規定されたもの」と「現実的なもの」を存在と考えている。論理学の内容は存在ではない。論理学のカテゴリーである質は論理的に規定されている。そして、「規定された質とは現実的な質以外の何物でもない」のも確かである。しかし、「現実的」の意味をフォイエルバッハは個別存在の意味で使っている。カテゴリーの質は現実的である。しかし、存在の規定ではない。
思惟された質、カテゴリーの質には現実的な質が先行する。しかし、カテゴリーの質に存在が先行するのではない。フォイエルバッハはカテゴリーの質の規定を考察することなく、経験的に「質」の規定を想定してヘーゲルを批判している。論理学の質は個別存在の「質」とは全く違う。カテゴリーの質は存在の規定ではなく運動の規定である。存在は運動体であり運動体は客観的であり現実的である。哲学は運動を対象としているのであって存在を対象としているのではない。カテゴリーの質は個別存在の質ではない。
●「無限者は有限者の真実な本質であり、真実な有限者である。真実な思弁または真実な哲学は真実且つ普遍的な経験以外の何物でもない。」(p42)
■これはフォイエルバッハ風の無意味な文章の実例である。哲学は無限者とは何か有限者とは何かを規定し、本質とは何かを規定する。フォイエルバッハは真実、本質、普遍的、人間的、と言った単語を無批判的に無規定に使う。これは規定ではなくて放言であり雑談である。
●「哲学とは存在しているものの認識である。諸事物と諸存在者とをあるがままに思惟し且つ認識すること–これが哲学の最高のおきてであり、最高の課題である。」(p43)
■存在しているものは、諸事物と諸存在者だけではない。客観的世界には運動が存在する。それを認識するのが哲学の課題である。哲学は諸事物と諸存在者をあるがままに思惟し且つ認識するのではない。哲学を運動を認識する。それは哲学の最高のおきてあるいは最高の課題ではなく、それだけが哲学の課題である。
●「存在しているものをあるがままに言表すること、したがって真実なものを真実に言表すること–このことは皮相であるように見える。存在しているものをあるがままにでなく言表すること、したがって真実なものを真実にでなく逆に言表すること–このことは深遠であるように見える。」(p44)
■存在を認識し規定するのは経験知であり経験科学である。その場合でも存在しているものをあるがままに言表することはありえない。フォイエルバッハはあるがままを真実だと考えているが、これは言葉の言い換えにすぎない。フォイエルバッハはあるがままとは何か、真実とは何かを考察することなくあるがままが真実であると考え、あるがままが真実である、が何らかの規定であると考えている。無批判的な言葉の羅列である。
哲学は存在をあるがままに言表することはないし、存在の真実を言表することもない。哲学は存在の全体を運動として規定する。存在の全体が運動としてあるがままに規定する。フォイエルバッハは運動と存在の規定を知らない。だから、ありのまま、真実なもの、真実に、悲壮、あるがままに、真実ではなく逆に、深遠であるように、等々の表現はまるっきり無意味で空虚な言葉の羅列である。
●「空間と時間とは現実的な無限者の顕示の諸形式である。」(p46)
■この一つ前の文章もこの規定もフォイエルバッハが無限者をまるで理解していないことを示している。フォイエルバッハは現実性を空間的、時間的な存在者と考えている。このことについて何ら懐疑をもつことができない。この意味では現実的な無限者は存在しえない。
無限者は空間と時間の中に現実的に存在するのではない。空間と時間は無限者の中に含まれる存在の一つである。
●「いかなる限界もなくいかなる時間もなくいかなる困窮もないところには、またいかなる質もなくいかなるエネルギーもなくいかなる精気もなくいかなる熱情もなくいかなる愛もない。ただ困窮に悩んでいる存在者だけが困窮を遠ざける(必然的な)存在者である。欲求をもたない存在者は余分な存在者である。一般に諸欲求から解放されているものはまた実存のいかなる欲求をももたない。そのようなものが存在するかどうか、それともまたは存在しないかどうかは、同じことであり、そのもの自身にとっても同じことであり他のものにとっても同じことである。困窮をもたない存在者は根拠をもたない存在者である。ただ苦悩する(受動する)ことができるものだけが実存するに値する。ただ苦痛に充ちた存在者だけが神的な存在者である。苦悩(受動)をもたない存在者は本質をもたない存在者である。しかるに苦悩(受動)をもたない存在者とは感性を持たない存在者まては物質をもたない存在者以外の何物でもない。」(p46)
■フォイエルバッハらしい文章である。哲学の無限者とは論理学である。無限者の規定とは論理学の内容でありカテゴリーの規定である。カテゴリーの規定に愛や熱情や苦悩や感性がなんの関係があろう。フォイエルバッハはわけがわからなくなると愛と苦悩の説教を始める。現実的で具体的なようであるが、実は無内容な熱弁にすぎない。愛や熱や苦悩や感性のないように見える純粋概念のカテゴリーの体系には無限の内容がある。熱や愛や苦悩や感性を声高に叫ぶのは現実的ではなく空虚である。
フォイエルバッハが空虚な演説を始めるのは哲学のネタが切れたときである。空虚で長いだけの文章である。
●「哲学者は人間のなかで、哲学しないもの・むしろ哲学に反対しているもの・抽象的思惟に対立しているものを取り上げなければならない。したがって哲学者は、へーゲルのもとでもっぱら註に引き下げられているものを、哲学の本文のなかへ取り上げなければならない。ただそうしてのみ哲学は普遍的な威力・対立物をもたない威力・反駁されることができない威力・抵抗されることができない威力になるのである。それ故に哲学は自分自身をもって始めるべきではなくて、自分の反定立をもって始めるべきである、すなわち非哲学をもって始めるべきである。われわれのなかにあって思惟から区別されたこの本質・われわれのなかにある非哲学的なこの本質・われわれのなかにある絶対に反スコラ的なこの本質は、感覚主義の原理である。(p48)
■哲学は抽象的思惟の中でのみ、論理学の内部でのみカテゴリーを規定しなければならない。論理学はヘーゲルが注によって論理学に取り込んでいる経験的内容を一切排除しなければならない。さらにカテゴリーの内容規定に入り込んでいる経験的内容をも排除して純化しなければならない。「ただそうしてのみ哲学は普遍的な威力・対立物をもたない威力・反駁されることができない威力・抵抗されることができない威力になるのである。」
哲学は哲学自体をもってはじめるべきである。非哲学から哲学を始める事はできない。哲学の原理は感覚主義の原理ではない。
このあとフォイエルバッハは頭脳だとか心臓だとか、その他ありとあらゆる非哲学的な思いつきを並べている。
●「へーゲル哲学を放棄しない者は神学を放棄しない。自然または実在が理念によって措定されているというへーゲルの教説は、単に、自然が神によって創造されており、物質的な存在者が非物質的な存在者すなわち抽象的な存在者によって創造されている、という神学的教説にかんする合理的表現にすぎない。絶対的理念はその上、自分の素性が神学上の天上にあることを自分の手で記録するために、論理学の終端において、もうろうたる「決意」をするようになるのである。」(p53)
■ヘーゲル哲学は神学ではない。自然または実在が理念によって措定されているというヘーゲルの教説は、神による自然の創造と同じである。この点はヘーゲル哲学の弱点である。
ヘーゲルは規定された無限性を実現するために、絶対精神がカテゴリーの体系である論理学と存在の規定のすべてを網羅するべきであると考えた。存在と対立する無限者は存在によって限界付けられるからである。そのために、まず論理学において抽象的概念として自己を規定した絶対精神が自己を外化し措定する、と考えた。こうすると哲学が論理学の中に閉じこもることなく存在のすべてを規定することになり、絶対者である論理学は存在と対立することなく無限者となる。
絶対理念が存在を措定するこの「決意」は哲学には必要ない。論理学は存在の規定を措定しない。論理学はカテゴリーの体系だけを措定する。この運動の規定において論理学は存在の規定の普遍になる。ヘーゲルはこの関係を知らなかったために純化を徹底できず、無限者の規定を存在の規定に拡張した。それは論理学のカテゴリーの体系の内容が存在全体の運動であることを理解できなかったからである。
ヘーゲル哲学が論理学と経験科学の規定の全体を一つの体系としたことをもって神学と中傷して否定することは、ヘーゲル論理学を放棄することを意味している。ヘーゲル哲学の内容は論理学である。ヘーゲル論理学の内容を研究し、その内容から存在の規定を排除することがヘーゲル論理学の客観化であり唯物論化である。
ヘーゲル論理学を神学として否定するフォイエルバッハの哲学には論理学がない。哲学とは論理学である。その論理学をフォイエルバッハは神学として単純に否定している。その結果フォイエルバッハは哲学の世界を抜け出して経験世界の雑知識を哲学と称して並べている。フォイエルバッハの世界には哲学的規定は何もない。
●「存在に対する思惟の真の関係はもっぱら、「存在が主語であり、思惟は述語である」ということである。思惟は存在から出て来るが、しかし存在は思惟から出て来ない。存在は存在自身から出て来るものであり、且つ存在自身によって存在しているものである。存在はもっぱら存在によって与えられる。すなわち存在は自分の根拠を自分自身のなかにもっている。なぜかといえばただ存在だけが意味・理性・必然性・真理–つまりあらゆるもののなかにあるもの–だからである。存在が存在しているのは、非存在が非存在–すなわち無・無意味–だからである。」(p53)
■唯物論者はこのように考える。しかし、これは哲学の唯物論的原理とは何の関係もない。ヘーゲルは存在を物質的存在の意味で使っている。客観的世界には物質的存在と運動がある。だから「存在が主語であり、思惟は述語である」として、存在と思惟の関係だけを規定するのは間違いである。
存在に意味があって非存在には意味がない。精神が存在を創り出すのではない。この程度の規定は経験知であって哲学的規定ではない。まるで無意味な規定である。
唯物論哲学の原理は、精神は客観的世界を反映する、である。しかし、このことが哲学の内容的原理になることはない。哲学の課題は経験科学と同じで客観的世界とは何かである。経験科学にはない哲学だけの課題は、客観的世界を存在と運動の二つに区別することである。哲学は世界の全体を規定する。その世界の全体は運動と存在によって構成されている。運動は存在の普遍である。哲学は客観的世界を普遍において規定する。これが哲学の唯物論的原理である。意識と存在の関係は唯物論的原理を規定するものではない。(2013.12.19)
将来の哲学の根本命題 – 一八四三年 – (p63)
●(5)
「思弁哲学の本質は神の本質が合理化され実現され現前させられたもの以外の何物でもない。思弁哲学は真の神学・整合的な神学・理性的な神学である。」(p68)
■思弁哲学の本質は神の本質ではない。思弁哲学の本質は論理学であり、論理学は客観的世界の反映である。ヘーゲルが初めて客観的世界の反映としての論理学の体系を作り上げた。
神学にこだわり、神学に捕らわれているのはヘーゲルではなくフォイエルバッハである。ヘーゲル哲学を神学と見なして批判するのであれば、せいぜい神学批判であってヘーゲル哲学批判ではない。
●(9)
「神的な存在者(神の本質)の本質的な諸特性または本質的な諸述語は、思弁哲学の本質的な諸特性または本質的な諸述語である。」(p77)
■フォイエルバッハは神の本質は人間の本質だという。また、神の本質は思弁哲学の本質である、という。この前提の上でヘーゲル哲学を特徴付けている。これは、鯨は魚である、したがって鯨肉は魚肉である、といって魚肉を批判するのと同じ詭弁である。思弁哲学の本質を批判するなら、論理学のカテゴリーの体系を研究しカテゴリーの内容を批判すべきである。そうすれば思弁哲学の本質が神の本質ではないことを理解できるだろう。
フォイエルバッハはあるものの本質を他のものへと移動しているだけである。神の本質も思弁哲学の本質も規定していない。たとえフォイエルバッハが規定しているつもりになっているとしても「思弁哲学の本質は神の本質である」は思弁哲学の規定でもないし神の規定でもない。その上、論理学は思弁哲学の本質だとか神の本質といった、何ものかの本質を規定するのではない。カテゴリーである本質をカテゴリーの内部で規定する。何ものかの本質を規定するのは経験科学の課題であって哲学の課題ではない。
●(12)
「原像として諸事物に先行し諸事物を創造する〈神の知または思惟〉と、諸事物の模像として諸事物に後続する〈人間の知〉との間の区別は、先天的な知(アプリオリな知)または思弁的な知と後天的な知(アポステリオリな知)または経験的な知との間の区別以外の何物でもない。
有神論は神を、たとえ思惟する存在者または精神的な存在者として表象するにしても、しかも同時に感性的な存在者として表象している。それ故に有神論は感性的物質的な諸作用を神の思惟および意志と直接に結合する。有神論が神の思惟および意志と直接に結合する感性的物質的な諸作用は、思惟と意志との本質と矛盾しているような諸作用であり、自然の威力以上の何物をも表現していないような諸作用である。そのような物質的作用–したがって感性的威力の単なる表現–であるものは何よりもまず現実的物質的世界の創造または産出である。それに反して思弁的な神学は思惟の本質に矛盾するこの感性的作用を論理学的作用または理論的作用に転化させ、対象の物質的産出を概念からの思弁的産出に転化させる。有神論においては世界は神の時間的産物である。すなわち有神論においては、世界は数千年以来実存しており、且つ世界が生成した以前に神が存在していた。それに反して思弁哲学においては世界まもへたは自然は単に地位または意義の方から見て神の後に存在しているにすぎない。すなわち、思弁哲学においては偶性は実体を前提し、自然は論理学を前提している。思弁哲学においては、自然は概念の方から見て論理学の後に存在しているのであって、感性的現存在の方から見て–したがって時間の方から見て–論理学の後に存在しているのではない。」(p82)
■フォイエルバッハは神の知と思弁哲学の知の違いを理解していない。フォイエルバッハはこの知の違いを先行と後続の違い、あるいは神に属するか人間に属するかの違いであると考えている。フォイエルバッハにとってすべての知の内容は知である点で同じである。本質的な問題は、それを人間の知とするか神の知とするか、の場所の違いであると考えている。そのために本質の位置が神の知と思弁哲学の知において、人間から離れた知である点で同じだと考えている。ヘーゲルは知の内容の違いを理解していない。
神の知の内容は人間の知であり経験的な知と同じである。神は諸事物の創造者であるから神の知は自らが創り出す諸事物である。哲学史がアプリオリな知や思弁的な知を創り出したのは、人間の知に先行する知を見いだそうとしたのではなく、諸事物の規定と違った実体の規定を見いだそうとしたからである。哲学の知は諸事物の知ではない。神の知と経験知は同じである。思弁哲学のアプリオリな知はこの両者と内容において対立している。
フォイエルバッハは、ヘーゲルの思弁哲学が経験知との分離において神の知よりも後退していると考えて批判している。神は少なくとも感性的物質的な諸作用と直接に結合している。有神論は感性的威力を表現している。「それに反して」思弁哲学は「対象の物質的産出を概念からの思弁的産出に転化させる。」、この点が経験論者フォイエルバッハの気に入らない。
学問は二つの種類に分かれる。経験科学と哲学である。経験科学は感性的物質的な諸作用を規定する。哲学は経験科学との分離を課題にしており、哲学独自の対象=内容を発見することが哲学史の課題であった。哲学史の最大の成果である思弁哲学は感性的物質的な存在あるいは諸作用を生み出すことを課題にしているのではない。フォイエルバッハが指摘する通り、思弁哲学は神のこの作用を変更し、「対象の物質的産出を概念からの思弁的産出に転化させる。」ここで重要なのは、概念が物質的諸作用の諸規定を生み出すことではない。思弁哲学は経験知を展開する前に、概念の内部で概念を具体化する。それが神との違いである。概念の内部で論理学を生み出した後に、その内容の外的措定として経験知を生み出すことが神との同一性である。この神との同一性がヘーゲル哲学の弱点であるが、それは第二義的である。
思弁哲学は神と違って概念を生み出す。フォイエルバッハはこれを有神論からの後退として批判している。思弁哲学はまず絶対精神内部で論理学を生み出す。神は論理学を生み出さない。論理学は諸事物の諸作用の規定ではない。論理学の規定は諸事物の規定ではないところに意義がある。これによって哲学は経験科学と分離され、哲学独自の内容を発見した。
論理学はカテゴリーの体系である。カテゴリーの体系に諸事物の規定は含まれない。論理学は諸事物の規定から分離された実体の規定である。神が存在の全てを生み出す全能であるとしても、論理学だけは生み出すことができない。論理学を生み出したのは思弁哲学であり、神でも神学でもない。
フォイエルバッハはこのあと、人類が個人の知を超えて無限の知を生み出す実例を示している。しかし、人類がどれほど経験知を積み重ねても論理学を生み出すことはできない。フォイエルバッハは人類が論理学を生み出す過程を示していない。人類が論理学を生み出す過程が哲学史である。個別存在に関する知識が無限に発展することが存在の全体の知識に接近することであるとしても、ただひとつ論理学にたどり着く事はない。神も人類も経験知の蓄積だけでは論理学に到達することはできない。
思弁哲学だけが論理学に到達したにもかかわらず、フォイエルバッハはその成果を経験知によって否定している。これは哲学の否定である。
●(22)
「神的存在者(神の本質)は人間の本質が自然の制限から解放されたもの以外の何物でもない。ちょうどそれと同じように、絶対的観念論の本質は、主観的観念論の本質が主観性の制限–そしてもとより理性的な制限–から解放されたもの以外の何物でもない。すなわち絶対的観念論の本質は主観的観念論の本質が感性または対象性一般から解放されたもの以外の何物でもない。それ故にへーゲル哲学は直接にカントの観念論およびフィヒテの観念論から導き出される。」(p107)
■フォイエルバッハは、神の本質、人間の本質、絶対的観念論の本質、主観的観念論の本質、が同じで、それが何かから解放されているかどうかが違うだけだと言っている。要するに経験知が神、人間、絶対者、主観、等々とどんな関係にあるかを問題にしている。フォイエルバッハにとっては、これらの本質は「知」である、という意味で同じである。すべての知を一つのものとして、それが何に属するかを問題にしている。フォイエルバッハは知の内容に対して無批判的である。それは知を分類できないから、つまり経験知と哲学知を分離できないからであり、哲学とは何かを理解できないからである。フォイエルバッハがもし、哲学知の独自の本質があることを哲学史から学び、それを規定する努力をしたならば、このような単純な同質化はなかった。知が知としてすべて同じであるからフォイエルバッハにはこれらに共通する知の本質を規定する課題が生まれない。
哲学にとってもっとも重要な問題は哲学独自の知の内容、哲学独自の対象とは何かである。フォイエルバッハはこの課題を持たない。だから、知を同じとみて、その知が、神に属するか主観に属するか空想的な絶対者に属するかを問題にしている。フォイエルバッハの本質とは経験知の全体を示している。フォイエルバッハの知の世界は経験知だけである。その上で、その知が何に属するかを問題にしている。そのためにフォイエルバッハは哲学的課題をまったく見失っている。
フォイエルバッハが「絶対的観念論の本質は主観的観念論の本質が感性または対象性一般から解放されたもの以外の何物でもない。」とヘーゲルを批判するとき、知が対象性一般から解放されているかどうか、現実から分離されているかどうかだけが絶対的観念論の特徴であって、知の内容は同じであると考えている。そのためにヘーゲル哲学は転倒した哲学であると批判される。そうするとヘーゲルの哲学を転倒すれば、あるいは地上の哲学に移しかえれば現実的な知になると考えられる。
フォイエルバッハがまるで理解していないのは、知が「感性または対象性一般から解放され」ることの意義である。神もまた主観的観念論も、知の位置が神の中にあっても主観の中にあっても知の内容は同じである。ヘーゲル哲学の意義は、知の位置が絶対者の中にあることではない。絶対精神の意義は、「感性または対象性一般から解放された」絶対精神が経験知とはまったく別の内容を、つまり哲学的な内容を持つ事である。
絶対的観念論は、知の内容を「感性または対象性一般から解放」することによって、神からも主観からも存在からも解放された、客観的で絶対的で純粋な論理学の体系を創り出した。神学も主観的観念論も経験論も論理学を創り出す事ができない。この違いを理解する唯一の方法は、この違いを哲学史上はじめて明らかにしたヘーゲル論理学の内容を批判的に規定することだけである。フォイエルバッハはヘーゲルの絶対的な成果である論理学の内容をまったく扱っていない。論理学抜きにヘーゲルの思弁哲学の本質やカント・フィヒテとの関係を語る事はできない。
●(23)
「へーゲル哲学は転倒された観念論であり、ちょうどスピノザ哲学が神学的唯物論であると同じように神学的観念論である。へーゲル哲学は自我の本質を自我の外に措定し、自我から引きはなし、実体として・神として対象化した。しかしヘーゲル哲学は、ちょうどスピノザが物質を神的実体の一属性または一形式にしたと同じように、自我の本質を神的実体の一属性または一形式にした。へーゲル哲学はこのことによって再び–したがって間接にまたは転倒して–自我の神的性質を言表した。人間が神についてもっている意識は神の自己意識である。すなわち、本質は神に所属し、意識は人間に所属しているのである。しかるにへーゲルのもとでは神の本質は実際に、思惟の本質以外の何物でもなく、または自我すなわち思惟者を捨象した思惟以外の何物でもない。へーゲル哲学は思惟を–したがって主観的存在者を–神的絶対的な存在者にした。しかしへーゲル哲学が神的絶対的な存在者にした思惟–したがって主観的存在者–は、主観(主体)をもたないものとして思惟されたものであり、したがって主観(主体)から区別された存在者(本質)として表象されたものである。」(p109)
■ヘーゲル哲学は自我の本質を実体として対象化したのではない。また、自我の神的性質を言表したのではない。ヘーゲル哲学は自我すなわち思惟者を捨象した思惟ではない。ヘーゲル哲学は主観的存在者を神的絶対的存在者にしたのではない。絶対的な存在者者とされた思惟は主観からヘーゲル区別された存在者として表象されたものではない。
ヘーゲルは思惟を自我から切り離し実体化し客観化した。だからヘーゲルは自分の哲学を客観的観念論とした。ヘーゲルの思惟の内容は客観的である。主観を離れているという意味ではなく、客観的世界を反映しているという意味で客観的である。
ヘーゲルまでの哲学はヘーゲルを含めて論理学を思惟の思惟であると考えていた。論理学が客観的世界の何を反映しているか判らなかった。論理学が非対象的な学問と言われるのはそのためである。正しくは、論理学は客観的世界の全体を一者である運動として規定している。この運動の規定は人類の思惟規定の中に無意識的に蓄積されている。それは諸存在の関係のもっとも深い関係を諸存在の規定から分離して規定している。その思惟規定はヘーゲルの時代までに体系化できるほどに蓄積されており、ヘーゲルがそれを体系化した。この体系は決して主観的思惟ではない。
論理学の対象が発見されておらず、論理学が客観的世界の何を反映しているかが理解されていなくても、論理学が主観的思惟に属するものではなく客観的意義を持つこと、普遍的意義を持つ事は確信されていた。ヘーゲルはその論理学を体系化したのだから自分の思惟を客観的思惟であると考えたのは当然である。実際に論理学は主観的な思惟の形式ではなく、客観的世界の反映である。しかも、個別存在を反映するのではなく、全体を直接的に反映する思惟として絶対的思惟である。
フォイエルバッハはヘーゲルの絶対的・客観的観念論を、「主観を持たないものとして思惟されたものであり、したがって主観(主体)から区別された存在者として表象されたものである。」としている。フォイエルバッハはヘーゲル論理学の意義を客観化の点でのみ評価し、しかもその意義を否定している。つまり、ヘーゲル論理学の客観化の意義を理解していない。ヘーゲル論理学が客観的思惟としてどのような意義を持っているかは論理学の内容によってのみ理解できる。論理学の内容を見れば、哲学史において、ヘーゲル論理学が客観的観念論として成立する以外にないことを理解できるだろう。そして、ヘーゲル哲学を批判し発展させるには、この客観化の過程をより純化し発展させることであることも理解できる。
フォイエルバッハは哲学史のこの過程を経験知に引き戻そうとしている。そのためにヘーゲル哲学を神学と同一視して経験知でないことにおいて否定している。フォイエルバッハのヘーゲル批判はすべて非哲学であり的外れである。
次の文章はフォイエルバッハの無理解がいかにもわかりやすい。
「概念・判断・推論は–そうだ、蓋然的判断とか実然的判断とかの個別的な判断諸形式および個別的な推論諸形式でさえも–われわれがもっている諸概念・諸判断・諸推論ではない。そうだ、それらは客観的な諸形式・独立的に存在する諸形式・絶対的諸形式である!こうして絶対的哲学は人間自身の本質および人間自身の活動を外化し、人間自身の本質および人間自身の活動を人間から疎外する。絶対的哲学がわれわれの精神に加える暴力または拷問はこのことに由来するのである。われわれはわれわれのものをわれわれのものとして思惟すべきではなくて、或るものをしてそのものたらしめている規定性を捨象すべきである。すなわちわれわれは或るものを意味をもたないものとして思惟すベきであり、或るものを絶対者という無意味のなかで受け取るべきである。無意味は神学の–ふつうの神学および思弁的神学の–最高の本質である。」(p111)
■フォイエルバッハは概念・判断・推論が主観的思惟であると確信して、ヘーゲルがそれを外化していることを馬鹿馬鹿しいことと考えて、ヘーゲルが概念・判断・推論を人間の活動から切り離し疎外していることを示すことがヘーゲル批判になると考えている。
ヘーゲルが人類の思惟から抜き出している概念、判断、推論、等々の内容は人類の思惟に蓄積されたカテゴリーである。ヘーゲルは思惟の中のカテゴリーを抽出し体系化することによって、蓄積されて無意識的に使われているカテゴリーの内容を改変し、その客観的内容を明らかにした。カテゴリーは客観的世界の反映であり、客観的世界がどのようになっているかを規定している。だから、蓄積されたカテゴリーを客観的世界の反映として純化しなければならない。そのためには、カテゴリーが主観的思惟ではなく、さらに思惟形式でもなく、さらには、それが存在の規定ではないことをも明らかにし、経験知のすべてを内容において排除しなければならない。
カントは存在の規定では客観的世界を規定し尽くせないことを理解して、無規定の物自体を客観的世界に想定した。ヘーゲルはこれを受け継いで、物自体の中身は論理学であること、そして論理学の内容はカテゴリーであることを発見してカテゴリーを体系化した。カテゴリーの体系が物自体の規定である。
しかし、ヘーゲルはカテゴリーの体系が客観的世界の何を反映しているかを発見できなかった。そのために論理学は思惟規定であると規定した。論理学は思惟の中からカテゴリーを取り出し、体系化によってその内容を改変したものであるから、思惟を思惟で改変したという意味で思惟の思惟であると考え、思惟の思惟は主観的な思惟から独立した客観的な思惟であると考えた。というのは、思惟の思惟であるカテゴリーは誰もがその内容を意識することなく、主観的な意志や意図とかかわり無く使っており、主観の中に客観的に浸透していたからである。
思惟の中に蓄積されたカテゴリーは客観的世界の全体を運動として反映している。主観的思惟のすべては客観的世界の反映である。カテゴリーの体系が特別に客観的思惟と感じられるのは、すべての主観に共通に無意識的に使われており、さらに、個別存在の認識と違ってまったくの普遍的内容として使用されなければならないからである。カテゴリーは個別存在の規定とまったくかかわりを持たない不思議な思惟規定である。カテゴリーの体系は客観的思惟と呼ばれるにふさわしい様々の特徴をもっている。
フォイエルバッハがヘーゲルの客観的精神を、「すなわちわれわれは或るものを意味をもたないものとして思惟すベきであり、或るものを絶対者という無意味のなかで受け取るべきである。」と解釈するのは、ヘーゲルの客観的精神の客観性の意味をまったく理解できないからである。論理学が無意味であると言えるのは、意味のある規定とは存在=或るものの規定だけだと考えているからである。哲学史は存在=或るものの規定ではない規定が「有る」と想定し、その規定を捜し求めた歴史の結果ヘーゲルにおいてようやくそれを発見し体系化した。フォイエルバッハはそれを無意味と言う。
もしフォイエルバッハのヘーゲル批判を現在でも認めるなら、論理学が無意味であることを証明しなければならない。それは到底できるものではない。ヘーゲル論理学が無意味であるなどありうるものではない。
●(24)
「それ故に思惟と存在との同一性は単に自分自身との思惟の同一姓(思惟の自己同一性)を表現しているにすぎない。すなわち、絶対的思惟は自分自身からはなれて行くことがなく自分自身から脱け出て存在に到達することがないのである。存在は彼岸として止まっている。絶対的哲学はたしかにわれわれに対して神学という彼岸を此岸にしたが、しかしその代わりにわれわれに対して現実的世界という此岸を彼岸にしたのである。」(p113)
■ヘーゲルにおける思惟と存在の同一性は観念論的な間違いである。絶対精神が存在を措定するのは経験論的な関係である。絶対精神は自己を措定することによって存在と一致する必要はない。
フォイエルバッハはヘーゲルを逆方向から非哲学から批判している。ヘーゲルの思惟は存在と一致できない、ヘーゲルの思惟は彼岸にとどまっている、ヘーゲルの思惟は存在を彼岸に移す事によって存在と一致している、これが経験主義者であるフォイエルバッハのヘーゲル批判である。
存在を此岸とするならば存在と対立する客観此岸は彼岸になる。フォイエルバッハは存在のみを此岸とするから、存在の規定でないものはすべて彼岸として規定される。客観的世界の基本対立は、個別存在と存在の全体の対立である。あるいは、存在と運動の対立である。
存在の全体を運動として規定する論理学はフォイエルバッハの考えでは此岸的ではなく彼岸的となる。論理学が彼岸的に見えるのは、それが経験知と違うからである。論理学は彼岸的であるが、それは非現実的であるのではなく、個別存在の規定よりも奥深く現実的である。論理学は客観的世界の無限性である。。個別存在は生成消滅する常ならぬものである。だから、哲学は現実における無限的なもの絶対的なもの生成消滅しないものを現実世界の実体として求めてきた。客観的世界の実体とは客観的世界の構造的な運動であり、その規定が論理学である。これこそが無限的な永遠的な客観的な現実世界である。そうであるのにフォイエルバッハは存在の経験的規定が現実世界で、存在の全体の論理的規定が彼岸であると考えている。転倒しているのはフォイエルバッハである。
●(25)
「すなわち私は感官活動においては対象を主観(主体)–現実的な存在者・自分自身を確証する存在者–であらわせるのである。私に対して或るものを主体(主観)として与えるのはただ感官だけでありただ直観だけである。(p116)
■個別存在が対象である場合、さらに個別存在が感官の対象となりうるほどの大きさや速度を持つ限界内においてのみこのように言うことができる。哲学が求めてきたものは感官や直観では認識できないものである。哲学は感官や直観では認識できない対象を規定する。存在の全体をどうして感覚し直観することができよう。自然科学が発展すると感覚の対象ではない大きさや速度が現れてくる。こうした対象とは質的に違う、論理的に考察しうる、非対象なものを哲学は探求してきた。それをカテゴリーの体系として規定したヘーゲルの功績はどれほど高く評価してもしすぎることはない。フォイエルバッハはこともあろうに、その成果の中心点を否定している。経験論はヘーゲル哲学の前ではあまりにも無力である。
●(26)
ただ思惟するだけの存在者–そしてもとよりただ抽象的に思惟するだけの存在者–は存在・実存・現実態にかんして全くいかなる表象をももっていない。存在は思惟の限界である。すなわち存在としての存在は哲学のいかなる対象でもない。少なくとも抽象的絶対的な哲学のいかなる対象でもない。思弁哲学はこのことを自分で、思弁哲学にとっては存在は非存在すなわち無に等しいということによって、間接的に言表している。しかるに無は思惟のいかなる対象でもない。
思弁的思惟の客観であるような存在は端的に直接的なものすなわち規定されていないものである。したがって、思弁的思惟の客観であるような存在のなかには、区別されるべき何物も存在せず、思惟されるべき何物も存在していない。しかも思弁的思惟は自分をあらゆる実在の尺度として宜言する。思弁的思惟はただそれのなかで自分が確証されているのを見出すものだけを或るものとして宣言し、ただそれにおいて自分が思惟のための素材をもっているものだけを或るものとして宣言する。それ故に存在は思惟にとっては思想をもたないものであり、それ自身において(本質的絶対的に)無である。なぜかといえば存在は思惟を否定するもの(思想の無)であるからである、すなわち思想にとって無であるものだからである。まさにこのためにまた、思弁哲学が自分の領域のなかへ引き入れ概念を帰属させるような存在は、現実的存在と人間が存在のもとで理解しているものとに絶対的に矛盾している純粋な幽霊である。すなわち人間は存在のもとで、事象と理性とに適応した現存在・自立存在・実在性・実存・現実性・客観性を理解している。これらすべての規定または名前は単に一つの同じ事象をさまざまな諸見地から表現しているにすぎない。もちろん、思想のなかにある存在・客観性をもたない存在・現実性をもたない存在・自立存在をもたない存在は無である。しかし私はこの無のなかで単に私のこの抽象作用の虚無性を言表しているにすぎない。
■この文章はフォイエルバッハの経験論の限界とヘーゲル哲学の偉大さの分かりやすい対比になっている。経験論の立場ではこの文章の内容は言うまでもないほどに正しい。しかし、哲学の立場からすると混乱の極みであり目茶苦茶である。
「ただ抽象的に思惟するだけの存在者–は存在・実存・現実態にかんして全くいかなる表象をももっていない。」は正しい。フォイエルバッハは批判するまでもなく間違っていると考えており、ヘーゲルは確かにこう言っていると間違いの証拠を示したつもりでいる。しかし、抽象的に思惟する哲学者は、存在・実存・現実態を対象にしてその内容を規定するのではない。
「存在は思惟の限界である。」と考えるのはフォイエルバッハの思惟の限界である。経験論は存在の限界を超えない。しかし、哲学的思惟は存在を超える。存在の限界を超えることができないフォイエルバッハの思惟は存在を超えると非現実の世界であり彼岸であると考える。存在を超える思惟は彼岸に到達するのではなく、存在の普遍である運動に到達する。それがヘーゲルの論理学である。
哲学の対象、つまり内容は存在ではない。したがって、哲学は存在の規定を含まない。フォイエルバッハはこのことから、思弁哲学の客観=対象である存在のなかには、「区別されるべき何物も存在せず、思惟されるべき何物も存在していない」と断定している。これは間違いというより虚偽であり中傷である。ヘーゲルの論理学は区別されるべきもの思惟されるべきものであふれている。論理学の中ですでに具体的に区別され規定され思惟されている。そうであるのにフォイエルバッハはこのように乱暴に断定している。
運動は存在の普遍である。存在は運動の現象形態である。そのために存在の規定や存在の相互関係の規定をより深く普遍的に規定する基礎となるのが論理学の内容であるカテゴリーである。実際にカテゴリーはそのように使われている。そのために、「思弁的思惟は自分をあらゆる実在の尺度として宣言する。」ことになる。すべての存在は全体の運動の中でのみ存在しており、存在の普遍的規定とはその運動における規定を意味するからである。
「思弁的思惟はただそれのなかで自分が確証されているのを見出すものだけを或るものとして宣言し、ただそれにおいて自分が思惟のための素材をもっているものだけを或るものとして宣言する。」
このようになるのは、カテゴリーは存在の規定として、個別的対象の規定として存在するのではなく、思惟の内部にカテゴリーとして、対象の規定の中に紛れこんでいながら対象の規定とは分離した内容として蓄積されているからである。だから、哲学が哲学として独立に成立するためには、思惟の内部の存在の規定でないカテゴリーだけ取り出さなければならない。思惟のなかに潜んでいる思惟規定だけが哲学の素材である。
フォイエルバッハはこのことを全く理解していないために、哲学のこの特徴を、「それ故に存在は思惟にとっては思想をもたないものであり、それ自身において(本質的絶対的に)無である。」として否定する。フォイエルバッハにとっては存在の規定でないものは無である。これはフォイエルバッハの無知である。それに付け加えている批判はフォイエルバッハの無知が生み出す屁理屈である。
フォイエルバッハは存在あるいは現象の背後にある物自体=全体の運動を知らない。そのために存在の規定でないものは無であるとしか考えられない。これをさらに幽霊であるといい、虚無性を表現しているにすぎないという。フォイエルバッハが知らないのは哲学的現実である。現実的存在には二種類ある。個別存在と全体の運動である。個別存在は常ならぬものであり、生成消滅する。だから、現実は、生成消滅するものつまり有限なものと、生成消滅しないつまり無限的なものの二つに区別される。哲学は無限者を規定する。無限者の規定は有限者の規定ではない。このことをフォイエルバッハは気配ほども気付いていない。
●(27)
「もし私が存在の内容を–そしてもとよりあらゆるものが存在の内容なのだからあらゆる内容を–捨象するならば、そのときはもちろん私にとっては無にかんする思想以外の何物も残存していない。」(p117)
■存在の諸規定を抽象すると無になるのではない。存在の諸規定を抽象すると定有になり、さらに抽象すると純粋有になる。存在の内容を抽象して到達する純粋有は運動の規定である。純粋有を始元として論理学の体系が始まる。論理学の体系は存在の規定を含まない。
フォイエルバッハの主張を認めるならば、質あるいは量を現実の中に対象として探し出さねばならない。現実世界のどこに対象としての質や量があるのか。そこにあるのは何ものかの質であり何ものかの量でり、存在の質であり存在の量である。フォイエルバッハはこの存在の質や存在の量だけを現実的であると認めている。しかし、論理学の対象は何ものかの質や何ものかの量ではない。一般に存在の規定ではない。論理学が規定すべき対象は純粋な質であり純粋な量である。純粋な、とは存在の規定性ではない、という意味である。ヘーゲルがこのことを強調し、不十分であるが論理学の内部でカテゴリーを規定して純粋思惟とは何か示している。フォイエルバッハはこのことをまったく理解していない。
●(28)
われわれは現象学の端初においては、一般的なものである言葉と常に個別的事象である事象との間の矛盾以上のいかなるものをもわれわれの眼前にもっていなかった。そして、もっぱら言葉を支柱にしている思想は、この矛盾を超へ出して行かない。しかし、ちょうど言葉が事象でないと同じように、語られた存在または思惟された存在は現実的存在ではない。もし人々が、へーゲルのばあいにはここでとは異なって、実践的立場における存在が話題にされているのではなくて、単に理論的立場における存在が話題にされているにすぎないのであるといって反対するならば、そのときはここは実践的立場が全くふさわしい場所なのであると答えられるべきである。存在にかんする問題はまさに実践的な問題–われわれの存在が関与している問題・生死にかかわる問題–である。
■もっともそうな、しかし非論理的な規定である。思惟の思惟である哲学は現実的思惟である。それこそが客観的世界の無限性を反映している。客観的世界の全体を規定する論理学においてどうして私の現実的存在や実践が問題になろう。論理学は私の存在や実践を、一般に個別的存在や個別的実践をまったく対象にしていない。だから、論理的な正しさを個別的存在や実践によって証明できるものではない。論理学の内容に個別存在も個別存在の運動も、個別存在の実践も持ち込んではならない。論理学はあくまで全体を規定するのであって個別を規定するものではない。
哲学=論理学を認識論と考える場合は、認識の正しさを実践で証明することができると考えて、論理学に実践が導入される。論理学は認識論が持ち込まれることによって混乱し、さらに実践が持ち込まれることによって混乱し、存在の規定を持ち込まれる事によって意味を失う。このような傾向は、ヘーゲルが哲学史上初めて純化した哲学=論理学を雑学に貶めるものである。フォイエルバッハのヘーゲル批判は哲学に対して平凡な経験知を対置しているにすぎない。分かりやすいのは常識的な経験知だからであり、非哲学だからである。哲学を何一つ知らなくてもフォイエルバッハを理解できる。そして、ヘーゲルの論理学を何一つ知らなくてもヘーゲルは思弁哲学であり神学であると批判することができる。フォイエルバッハは哲学的無知を哲学に祭り上げている。ヘーゲル哲学によって経験論は昇華された。ヘーゲル哲学を経験論によって批判するのは哲学の否定である。
●(29)
「古代哲学は思惟の外に或るものを存立させていた。すなわち古代哲学は思惟に解消されなかった或る残余をいわば残存させていた。思惟の外にあるこの存在の形像が物質–実在性の基体–である。理性は物質において自分の限界を持っていた。古代哲学はなお思惟と存在との区別のなかに生きていた。古代哲学にとってはまだ思惟・精神・理性が、あらゆるものを包括する実在–すなわち唯一の実在・排他的実在・絶対的実在–ではなかった。古代の哲学者たちはなお世界知者たち–生理学者たち・政治学者たち・動物学者たち・つまり人間学者たち–であって、神学者たちではなかった、少なくとも単に部分的な神学者たちであるにすぎなかった。」(p122)
■哲学が思惟と存在の区別の中に生きている場合はまだ哲学ではない。古代哲学の多くはまだ経験科学と分離していなかった。それは哲学が独立的な学問として成立していなかったことを意味しており、古代哲学の限界を意味している。しかし、偉大なアリストテレスは「思惟と存在との区別の中にいきていた」のではなかった。アリストテレスはすでに客観的世界を規定するために存在と運動を区別する必要があることを理解していた。しだし、古代哲学において運動を規定することはできなかった。まだ、思惟の中にカテゴリーが十分に蓄積されていなかったからである。カテゴリーが蓄積されるためには経験科学と社会関係が発展していなければならない。その発展の中で全体の運動を反映したカテゴリーが生まれてくるからである。
哲学者が生理学者であり政治学者であっても構わない。しかし、哲学の内容は生理学であってはならないし政治学であってはならない。つまり、部分あるいは個別を内容とする学問であってはならない。
フォイエルバッハは経験論者らしく、現実を思惟と存在の対立として捕らえている。現実世界において思惟と存在が対立しており、その思惟が存在と一致することが思惟の真理である、とフォイエルバッハは考えている。しかし、客観的世界と思惟の一致において問題になるのは、客観的世界をどのように捕らえるかであり、客観的世界をどのような基本的対立において捕らえるかである。客観的世界と思惟の対立など問題になりようがない。客観的世界は存在と運動の対立において捕らえる事ができる。だから、思惟が存在を超えて運動に到達しないかぎり思惟は客観的世界を捕らえることができない。
思惟・精神・理性が「あらゆるものを包括する実在–すなわち唯一の実在・排他的実在・絶対的実在」となるのは、あらゆるものを包括する実在即ち実体は運動であり、その運動を規定するのが理性であり、理性が規定した実体が論理学だからである。
フォイエルバッハはここでヘーゲルはアレクサンドレイア哲学である、と言っている。フォイエルバッハは個別の特徴を捕らえてそれを本質として両者を同一視する悪癖を持っている。牛の本質は角である、でんでんむしの本質は角である。したがって、でんでん虫は足を持たない牛にすぎない。こんなものは哲学ではない。
●(30)
ただ「具体的」概念–現実的なものの本性をそれ自身においてになっているような概念–だけが真実な概念でああるという規定は、具体的なものまたは現実態の真理性にかんする承認を表現している。しかしそれにもかかわらず初めから概念–すなわち思惟の本質–が絶対的存在者(本質)・唯一の真実な存在者(本質)として前提されているから、実在的なものまたは現実的なものはただ間接的な様式でのみ–ただ概念の本質的必然的な形容詞としてのみ–承認されることができるのである。ヘーゲルは実在論者であるが、しかし純粋に観念論的な実在論者またはむしろ抽象的な実在論者–あらゆる実在を捨象した実在論者–である。ヘーゲルは思惟を否定する、すなわち抽象的思惟を否定する。しかしヘーゲルは自分自身再び抽象的思惟のなかで抽象的思惟を否定するのである。その結果ヘーゲルにおいては抽象の否定がそれ自身再び一つの抽象なのである。ヘーゲルにしたがえば哲学はただ「存在しているもの」だけを客体としてもっている。しかしこの「存在していること」そのことがそれ自身単に抽象的な「存在していること」・思惟された「存在していること」にすぎない。へーゲルは思惟のなかで力量以上のことをしている思想家である。すなわち、へーゲルは事物自身をとらえようとしているが、しかし事物の思想のなかで事物自身をとらえようとしているのである。へーゲルはまた、思惟の外にいようとしているが、しかし思惟自身のなかにいて思惟の外にいようとしているのである。「具体的」概念をとらえることのむずかしさはここから来ている。
■この文章もことごとく間違いである。フォイエルバッハはこれらのヘーゲル批判が間違いでありうるとはナノ単位でも思っていない。
概念は具体的でなければならない、規定されていなければならない、現実的でなければならない、とヘーゲルは繰り返し強調している。このとき重要なことは、具体的とは何か、規定するとは何か、現実的とは何かである。ヘーゲル哲学によって具体性、規定性、現実性の意味がコペルニクス的転回ほどに変化したからである。このことをヘーゲルは正確に理解していたわけではないが、観念論的な曖昧さのにおいて突き止めていた。ヘーゲル批判としてやるべきことは、ヘーゲルの規定をさらに発展させて、具体性、規定性、現実性の新しい意味を規定することであるのに、フォイエルバッハはそれをすべて簡単に捨て去って、経験的な意味に解消している。
概念の真理性は概念の具体性であり規定性である。ヘーゲルがこのことを強調する必要があったのは、概念の規定性は「実在的なもの現実的なもの」の規定性とは違うからである。概念の真理性としての具体性は、実在的なものとしての現実的なものの規定性ではないのだから、純粋概念内部の規定性でなければならない。この規定が古代哲学以来どうしてもできない課題であったが、とうとうヘーゲルが発見した。それが論理学である。
個別存在としての実在は哲学における実在ではない。個別存在は生成消滅する常なき者であり、哲学にとっては非存在である。哲学にとっての実在性、現実性とは客観的世界全体の客観的な運動である。この運動が哲学の対象であり内容であることと、その具体的な規定がどうしても発見されなかった。しかし、この運動の規定は人類の思惟の中に、また哲学史の中に蓄積されていた。だから、思惟を実在とし思惟を対象とする観念論において論理学としての哲学は発展してきた。存在だけを対象とする経験論は論理学の中に入ることができなかった。だから、「ヘーゲルは実在論者であるが、しかし純粋に観念論的な実在論者またはむしろ抽象的な実在論者–あらゆる実在を捨象した実在論者–である。」とするフォイエルバッハの指摘は正しい。フォイエルバッハはこの意味を理解していないからこの点をヘーゲル哲学の弱点として批判的に書いている。
純粋に観念論的な、抽象的な実在論とは、実在の諸規定を捨象する哲学である。存在の諸規定を抽象することによって初めて客観的世界の実体を規定することができる。存在の諸規定を抽象して絶対的抽象に到達したのち、この絶対的抽象を否定して絶対的抽象において具体化し規定するのが論理学である。論理学は絶対抽象の内部から抜け出して存在の世界に入り込んではならない。ところがヘーゲルは無限者が存在の規定をも網羅すべきであると考えたために、絶対精神が論理学が内部で展開した後存在の規定を自己内で措定すると考えた。そのために、純粋抽象の内部の規定にも存在の規定が多く紛れ込んでおり、思惟規定を純粋抽象において実現することができなかった。しかし、純粋抽象の内的否定による具体化だけが哲学的真理であることを明らかにしたのはヘーゲルの功績である。
存在の諸規定を抽象すると存在の普遍に到達する。その普遍をさらに抽象すると運動の規定に到達する。ヘーゲルは運動の規定に到達することができず、有論を存在の運動として規定した。しかし、存在の規定の抽象によってのみ哲学的真理に到達できることを知っていた。しかも、その絶対的抽象を抽象の内部で具体化しなければならないことを言明し、絶対的抽象を内部で否定し具体化して論理学を書き上げた。抽象的思惟の中で抽象的思惟を否定し具体化する体系を作り上げたことこそヘーゲルの偉大な画期的な哲学的功績である。
ヘーゲル哲学は抽象において具体化されている。その内容が多くの経験的内容を持つことが、つまり、十分に抽象化されず、純化されていないのが弱点である。フォイエルバッハはこのことをまったく理解せず、抽象的思惟の独立を批判し、哲学的抽象的思惟の規定を存在の規定に引き下ろすべきだと批判している。しかし、抽象的思惟の内部で具体化した概念を存在の規定に引き下ろすことなどできるものではない。本質や量の規定をどうやって存在の規定に移す事ができるというのか。フォイエルバッハはカテゴリーの存在からの独立性をまったく理解できないために、カテゴリーもまた存在の規定であると思っているのであろう。カテゴリーの内容を検討すればそれが存在の規定ではないことを理解できる。しかし、フォイエルバッハはカテゴリーの内容を考察していない。
「しかしこの『存在していること』そのことがそれ自身単に抽象的な『存在していること』・思惟された『存在していること』にすぎない。」、のこの「すぎない」はいかにフォイエルバッハが哲学的に無知であるかを物語っている。論理学においては、「存在していること」、有は、抽象的な有、思惟された有であることにおいて初めて意味を持っている。ヘーゲルは、この純粋有を発見したことにおいてパルメニデスが哲学の祖であると評価している。フォイエルバッハは存在を個別存在と考えており、具体的規定を存在の諸規定と考えており、現実性を個別存在であると考えている。哲学における現実性や具体性はヘーゲルによって全く別の意味に書き換えられた。フォイエルバッハにはそのことが、つまり哲学の本来の課題が意識の片鱗にも存在しない。フォイエルバッハは哲学史上の最高の成果を投げ捨てて経験知の地の底に沈む事をひたすら現実的で具体的で真実である、と考えている。フォイエルバッハの前には哲学史が存在しないかのようである。
●(31)
「抽象作用の闇のなかで現実態の光りを承認することは一つの矛盾である。すなわちそのことは現実的なものを否認することのなかで現実的なものを肯定することである。新しい哲学は、具体的なものを抽象的様式で思惟するのではなくて具体的様式で思惟する哲学であり、現実的なものをそれの現実性のなかで–したがって現実的なものの本質にふさわしい様式で–真実なものとして承認し且つ哲学の原理および対象に高める哲学である。それ故にこういう新しい哲学が初めてヘーゲル哲学の真実態であり、近世哲学一般の真実態である。」(p127)
■抽象作用は闇ではない。抽象作用は現実を光で照らす力である。抽象作用によってのみ認識できる現実態があり、その認識に基づいて現実は普遍において認識される。存在としての現実的なものを否定し抽象することで初めて無限者としての現実を認識することができる。無限者は運動である。運動は抽象の世界の内部で規定され具体化される。具体的思惟とは運動の具体的規定でありカテゴリーの規定である。カテゴリーの体系の規定は、現実的なものを現実性の中で、現実的なものの本質にふさわしい様式で規定することである。これが哲学である。
フォイエルバッハが掲げている近世哲学一般の真実態とは経験科学である。哲学ではない。
「しかし、もしわれわれが理念の実現といっしょに実在論の世界へ入るならば、すなわちもし理念の真実態が理念が現実的であるということであり理念が実存するということであるならば、そのときはわれわれはそうだ実存を真実態(真理)の規準としてもっているのである。すなわちただ現実的であるものだけが真実であるのである。そしてただ「何が現実的であるのか?」ということだけが問題になる。ただ思惟されただけのものが現実的であるのか? ただ思惟の客観または悟性の客観であるものだけが現実的であるのか? 」(p128)
■これも同じ間違いである。理念の真実態とは理念の現実性である。客観的世界が理念の基準であり内容である。現実的であるものだけが真実である。そして、「何が現実的であるのか」が問題になる。思惟されただけのものは現実的ではない。思惟の客観が現実的である。この当然の規定まではフォイエルバッハも理解することができる。
経験論者が理解できないのは「現実とは何か」である。フォイエルバッハは現実を個別的な物質的存在であると考えている。哲学史が悩んできたのはその個別存在が生成消滅し、運動しているために確定的に規定できないことである。個別存在は規定の瞬間から手元をすり抜ける。だから哲学は実体を求めた。実体こそが理念の真実態である。実体こそが真の現実性である。実体は存在を生成消滅させている運動の全体である。運動は無限であり且つ規定することができる。フォイエルバッハの目にはこの理念、実体の世界が見えない。フォイエルバッハにとっては実体の世界は闇に閉ざされている。
「思想が自分を実現するということは、まさに、思想が自分を否定するということを意味し、思想が単なる思想であることをやめるということを意味する。さて、この非思惟・思惟から区別されたこのものとは、いったい何物であろうか? それは感性的なものである。したがって、思想が自分を実現するということは、思想が自分を諸感官の客観にするということを意味する。したがって理念の実在性とは感性である。しかるに実在性は理念の真実態である。したがって感性が初めて理念の真実態なのである。」(p129)
■これも同じである。フォイエルバッハは同じ無理解を繰り返しており、論理はまったく進展しない。思惟から区別されたものは客観的現実である。ところがフォイエルバッハは「思惟から区別されたこのものとは、いったい何物であろうか?」と自ら問いながらこれに答えられない。哲学=論理学が客観的とする客観は感性的なものではない。諸感官は存在の全体を対象にしない。理念の実在性とは感性ではなく理性である。感性は理念の真実態ではない。思想が自分を否定すると具体的な思想になるのであって思想をやめるのではない。
●(32)
「それの現実性における現実的なもの、または現実的なものとしての現実的なものは、感官の客観としての現実的なものであり、感性的なものである。ただ感性的な存在者だけが真実な存在者であり現実的な存在者である。真の意味での対象はもっぱら諸感官によって与えられるのであって、思惟そのものによって与えられるのではない。思惟といっしょに与えられた客観、または思惟と同一な客観は、単に思想にすぎない。」(p130)
■これも同じであるがあまりに端的な間違いなので引用しておく。存在全体を一者としての運動として規定する哲学は理性によってのみ認識できる。これこそが感性的な存在者の普遍としての真の現実態である。
このあとフォイエルバッハは、「交互作用の秘密を解くものはただ感性だけである。ただ感性的な諸存在者だけが相互に対して影響を及ぼす。」(p131)と書いている。フォイエルバッハはこうした断言が間違いであるとは思いも寄らないであろう。哲学は交互作用の秘密を解く学問である。しかし、私と汝の関係の秘密を解くのではない。「交互作用」自体の秘密を解くのが哲学である。或るものと他のものとの現実的で具体的な交互作用の在り方の秘密を解くのは経験科学である。哲学はすべての存在と切り離して「交互作用」とは何かを規定する。「交互作用」自体は諸感官の対象ではない。
フォイエルバッハは感性と感情を哲学の原理にした上で、現実的な交互作用として愛を原理にして、哲学から遥か遠くに離れて愛の説教の世界に入る。これは哲学の領分ではないから批判する必要はない。
●(38)
「ただいかなる証明をも必要としないもの・直接に自分自身によって確実であるもの・直接に自分を弁護し且つ自分に取り入るもの・自分が存在するという肯定を直接に自分の方に引き寄せるもの–ただこういうものだけが真実なものであり神的なものである。すなわちただそういうものだけが端的に決定的なものであり、端的に疑いがないものであり、太陽のように明らかなものである。しかるに太陽のように明らかなのはただ感性的なものだけである。ただ感性が始まるところでだけ、あらゆる疑いおよび争いがやむ。直接知の秘密は感性である。」(p136)
■感性の対象は個別存在である。個別存在は常ならずうつろうものである。この世に存在の無常を嘆く詩のない世界はない。無常の世の中の秘密を解くには無常でない恒常の世界を探し、それに基づいて無常の世界を規定しなければならない。何一つ確実でなく、何一つ常なるもののない世界を確実なものとして認識し捕らえることができないことが哲学的な嘆きである。その常なるものの端緒をヘーゲル哲学がようやく発見し体系化している。フォイエルバッハはそれを感性によって否定している。フォイエルバッハの理論はあまりにも非哲学である。
●(43)
「それ故に、哲学の課題–学問一般の課題–は感性的な諸事物すなわち現実的な諸事物からはなれて行くことのなかに存立しているのではなくて、感性的な諸事物すなわち現実的な諸事物に向かって行くことのなかに存立しているのである。すなわち、哲学の課題–学問一般の課題–は、諸対象を諸思想および諸表象へ転化させることのなかに存立しているのではなくて、ふつうの眼にとっては不可視的なものを可視的なものにすなわち対象的なものにすることのなかに存立しているのである。」(p143)
■哲学の課題は学問一般の課題ではない。経験科学は感性的な諸事物を認識の対象としている。哲学は諸対象を持つのではなく、一者だけを対象としている。その一者の諸規定は思惟の中に蓄積されている。だから哲学は思惟の思惟として客観的世界を認識対象としている。哲学もまた他の学問同様客観的世界の認識であるから、不可視的なものを対象的なものにする。フォイエルバッハは哲学が経験科学と違う独自の対象を持つことに気付いておらず、そんなことがありうることの予感すら持っていない。
●(44)
「空間と時間とはなんら単なる現象の諸形式ではない。空間と時間とは本質(存在者)の諸条件であり理性の諸形式である、すなわち存在および思惟の諸法則である。」(p144)
■空間と時間は客観的存在である。存在および思惟の諸法則ではない。
「それ故に空間的な相互外在が初めて論理学的な諸区別の真実態なのである。しかるに相互の外部に存在しているものはまたただ相互継起的にのみ思惟されることができる。現実的な思惟は空間と時間とのなかでの思惟である。空間と・時間(時間の長さ)との否定は常に空間そのものと時間そのものとの内部に帰属する。われわれは単に空間と時間とを節約しようとするにすぎないのである。」(p146)
■空間的な相互的存在は論理学的な諸区別の真実態ではない。論理学は空間時間を含めた存在の全体を一者として規定する。だから論理学は空間と時間の中での思惟ではない。
●(45)
「諸事物はそれらのものが現実のなかで現われているようにしか思惟されることができない。」(p147)
■諸事物は現実の中で二つの形式で現れて思惟される。諸事物が個別存在として存在し、運動し、相互に関係する現実が一つ。この現実はより普遍的には一つの運動体として構造を形作っている。この全体的関係において個別存在のありかたと運動と他との関係を認識することができる。これが客観的世界の真実の在り方であり現実性である。
●(46)
「例えば、もし私が存在をもっぱら存在として考察し、存在しているあらゆる規定性を捨象するならば、そのときは私はとうぜんなことながら無に等しい存在をもつのである。そうだ、存在と無との間の区別または限界であるものはただ規定性だけである。もし私が存在するものを捨象するならば、そのときはなおこの単なる「存在する」は何であるか?しかるに、この対立とこの対立の同一性とについて妥当することは、また思弁哲学における諸対立物の同一性についても妥当する。」(p147)
■存在のあらゆる規定性を捨象すると無になるのではない。存在の諸規定を捨象して生まれる単なる「存在する」は、存在という状態の規定であり運動の規定である。フォイエルバッハはそれが何であるかを知らないために、それが無であると考えている。存在の規定を捨象すると無になると考えているのは、フォイエルバッハが存在に固執し、存在の規定の限界を超えられないからである。
●(48)
「絶対的思惟–すなわち、孤立させられた思惟・感性を捨象した思惟–が形式的同一性–自分〔思惟〕自身との同一性–を超出して行かないということを認識することは最も重要なことである。なぜかといえぱ、たとえ思惟または概念が対立した諸規定の統一として規定されるとしても、しかもこれらの規定はそれら自身再び単に諸抽象態または諸思想規定にすぎず、したがって常に再び自分(思惟)自身との思惟の同一性であり、単に絶対的真理として出発点になっているような同一性の諸倍数にすぎないからである。理念が自分に対立させる他者は、理念によって措定されたものであって、真実にまたは実在的に理念から区別され理念の外部に放置されておらず、せいぜい単に理念の寛容性を示すために形式上(pro forma)または外見的に理念から区別され理念の外部に放置されているにすぎなももい。なぜかといえば理念のこの他者はそれ自身再び理念であるからである。」(p149)
■絶対的思惟は自己を超出していかない。ヘーゲルが自己を超出して存在の規定をも措定したのはヘーゲル哲学の弱点である。絶対精神は純粋に自己内にとどまらなければならない、経験知を自己内に紛れ込ませてはならない。絶対精神は自己内で思惟想諸規定だけを生み出すのであって存在の規定を生み出すものではない。このことによってのみ純粋思惟は客観的世界と一致する。
「直観は諸事物を広い意味で受け取り、思惟は諸事物を最も狭い意味で受け取る。直観は諸事物を諸事物の無制限な自由のなかに放っておく。思惟は諸事物に諸法則を与えるが、しかしこれらの法則は余りにしばしば単に専制的な諸法則にすぎない。直観は頭脳を啓蒙するが、しかし何物をも規定せずまた何物をも断定しない。思惟は決定するが、しかしまたしばしば頭脳を限局する。直観そのものはいかなる恨本命題をももたず、思惟そのものはいかなる生命をももたない。規則は思惟の事象であり、規則からの例外は直観の事象である。・・・」(p150)
■フォイエルバッハはこのように思惟を特徴付けている。しかし、フォイエルバッハはヘーゲルの思惟規定の具体的内容をまったく研究しておらずその内容を理解していない。つまり、思惟規定の内容を知らない。フォイエルバッハは思惟規定の内容を知らずにこのように、狭いだとか、専制的だとか、限局だとか生命を持たない、と中傷している。ヘーゲルの思惟規定はこのようなものではない。
●(49)
「現実的な認識を与える諸規定は常にただ対象を対象自身によって規定するような諸規定・対象自身の個体的な諸規定だけであり、したがって論理学的–形而上学的諸規定のような一般的な諸規定ではない。論理学的=形而上学的な諸規定は、あらゆる諸対象に区別なしに及ぶが故に、いかなる対象をも規定しない。」(p151)
■「現実的な認識を与える諸規定は常にただ対象を対象自身によって規定するような諸規定・対象自身の個体的な諸規定だけであり」は正しい。しかし、「したがって論理学的–形而上学的諸規定のような一般的な諸規定ではない。」とはならない。フォイエルバッハはこの「したがって」の部分に分離があることを理解できない。論理学的な一般的な諸規定に対応した、論理学が対象とする現実が客観的に存在する。論理学の規定は「あらゆる諸対象に区別なしに及ぶ」が、「故に、いかなる対象をも規定しない。」とはならない。論理学は諸対象を対象にしていない。ただ一つの対象を持つだけである。全体の運動が論理学の対象である。諸対象の質、あるいは諸対象の量を規定するのではなく、質あるいは量をそのものとして規定するのが論理学である。それが論理学の現実性であり、現実的な認識である。このことがどうしてもフォイエルバッハの意識に浸透しない。
●(50)
「または、新しい哲学はたしかにまた理性をも支柱にしているのであるが、しかし新しい哲学が支柱にしている理性は人間の本質を自分の本質にしている理性である。・・・・なぜかといえばただ人間的なものだけが理性的なものであるからである。すなわち人間は理性の尺度である。」(p152)
■哲学が支柱にしている理性は客観的世界の全体である。それは人間の本質ではない。哲学が対象にするのは、人間の本質ではないし存在の本質ではなく、「本質」である。本質は運動形式の一部分であるが、哲学は「本質」を規定するのであって、人間その他の本質を規定するのではない。
人間は理性の尺度ではない。理性の尺度は一者としての客観的世界の全体である。
●(54)
「新しい哲学は、人間の土台としての自然を含めた人間を、哲学の唯一の対象・普遍的な対象・最高の対象にする。新しい哲学はしたがって自然学を含めた人間学を普遍学にする。」(p157)
■自然あるいは人間を対象とする学問は経験科学である。ヘーゲルは(53)で嗅覚や胃の話をしている。嗅覚や胃が論理学と何の関係があろうか。嗅覚や胃を論じても構わない。しかし、嗅覚や胃をヘーゲル論理学への批判として展開すべきではない。論理学とは関係のない話である。
●(58)
「真理はただそれだけ引きはなされた思惟のなかに実存しているのではなく、ただそれだけ引きはなされた知のなかに実存しているのではない。真理はもっぱら人間の生活と本質との全体性である。」(p159)
■哲学的真理とは、客観的世界の全体を一者として規定することである。「真理はもっぱら人間の生活と本質との全体性である。」とは一体どういう意味であるのか。人間のとは何か、生活と本質とはどういう関係で並んでいるのか、その全体性とはいったい何事であろう。馬鹿馬鹿しい無規定な言葉の羅列である。このあと無規定で無責任な放言が続いている。(2013.12.12)
『将来の哲学の根本命題』に対する批判的諸注意 – 一八四八~四九年 – (p163)
これは、『将来の哲学の根本命題』の繰り返し。内容はない。(2013.12.12)
肉体と霊魂、肉と精神の二元論に抗して – 一八四六年 – (p173)
これは哲学ではないし、非哲学としても無内容である。唯物論の故をもってこれを唯物論者が評価するなら、唯物論は無思想と言われてもやむをえない。
私の哲学的発展行程を特色づけるための諸断片–一八四六年–(p217)
「親愛なお父さん! 僕の諸聴講はもとよりまだやっと四週間つづいただけです。しかし僕の諸聴講は僕にとってすでに無限な価値をもっているものでありました。しかしながら、ダウプのもとでは僕にとってなおあいまいであったものおよびわからなかったもの、または少なくとも基礎づけられていないように見えたもの–そういうものを僕はすでに僕が今までへーゲルのもとできいた僅かな諸講義の結果、明瞭に透視し且つそれの必然性において認識しました。僕はすでに、僕のなかで単に燃えかすとしてくすぶっているにすぎなかったものが、明るい炎となって炎上しているのを見ています。私がだまされていると信じないで下さい!そうです、認識欲によって活気づけられ、且つダウプのような人によって準備され思惟にかんして訓練されて、ヘーゲルのところにやって来る或る人が、僅かな数時間の間にすでにへーゲルがもっている思想の充溢と深さとが与える力強い影響を感じるということは、全く自然なことです。へーゲルもまた彼の諸講義においては彼の諸著書におけるほど不明瞭ではなく、むしろ明白であり、且つ容易に理解されることができます。なぜかといいますと彼は常に彼の聴講者たちの理解力に対してたいへんたくさんの(p223)顧慮をはらっているからであります。しかし彼におけるすばらしいものは、たとえ彼が或る事象の概念を厳格に哲学的に展開しないで通常の諸表象に立ち入るにしても、しかも彼が常にその事象の中心点のなかに止まっているということであります。」(1824年)
「僕は今やへーゲルを片づけた。僕は美学を例外として彼のあらゆる諸講義をきき、その上彼の論理学は二度きいた。しかしへーゲルの論理学はいわば「法典」(Corpus juris)であり、哲学の『ユスティニアヌス法典(法令全書)』(Pandekten)である。へーゲルの論理学は古代哲学および近世哲学の双方をそれらのものの思想諸原理の方から含んでいる。ヘーゲルの論理学はその上、彼の方法の叙述である。しかし最も重要なことはまさに、ただ或る哲学の(p225)内容を支配するだけではなくて、またその哲学の方法をも支配することである。」(1826年)
懐疑
思惟は存在に対してどういうふうに関係するか? 論理学は自然に対してどういうふうに関係するか?論理学からの自然への移行は基礎づけられているか? この移行の必然性または原理はどこにあるか? われわれはたしかに論理学の内部で、存在と無・或る物と他者・有限者と無限者・本質と現象というような単純な諸規定が、相互に移行し合い且つ廃棄し合っているのを見る。しかしそれらの規定はそれら自身において、抽象的な諸規定・一面的な諸規定・否定的な諸規定である。しかしながら、すべてのこれらの規定を総括している企体性としての理念は、いったいどういうふうにして、理念のこれらの有限な規定と等置されることができるのか? 論理的な進行の必然性は論理的な諸規定自身の否定性である。さてしかしいったい、絶対的で完全な理念のなかにある否定的なものとは何であるか? それは絶対的で完全な理念がもっぱらなお思惟の境位のなかに存在しているということであるか? さてしかしあなたは、なお他の境位が存在しているということをどこから知るのか? 論理学からか? 決してそうではない。なぜかといえばまさに論理学は自分自身からはただ自分について–すなわち思惟について–知るだけだからである。したがって論理学の也者は論理学からは演繹されない、すなわち論理的には演繹されないで、非論理的に演繹されるのである。すなわち論理学が自然へ移行するのはもっぱら、思惟する主観が論理学の外部に直接的な現存在すなわち自然を眼前に見出し、且つ自分の直接的な立場すなわち自然的な立場の力によって自然を承認するように強制されているからである。もしいかなる自然も存在していなかったとしたならば、そのときはまた決して論理学という無垢な処女が自然を自分のなかから産み出したりしなかっただろう。(p227)(1827~28年)
■【フォイエルバッハは論理学と自然の関係を問題にしている。唯物論者は客観的世界を物質的存在だと考えている。そのために物質的存在の世界と論理学がどんな関係にあるかを問題にし、ついには関係がないことあるいは、論理学が物質を生み出す関係にあると考えて、論理学を否定するに至る。論理学が物質的存在、あるいは存在一般を対象にしておらず、規定しないことを理解しなければならない。論理学のカテゴリーの内容を研究してそれが何を意味するかを理解する以外に論理学と存在の関係を理解する方法は無い。フォイエルバッハはカテゴリーの内容を離れて、一般論として論理学と自然の関係を考察している。これでは論理学と自然の関係を理解することはできない。】
へーゲル哲学は現代および未来に対してどういうふうに関係しているだろうか? へーゲル哲学は思想の世界として、過ぎ去った世界ではなかろうか? へーゲル哲学は人類が、自分がかつてそれであったがしかし今はもはやそれでないものにかんする想起以上のものだろうか?(p227)(1827~28年)
一八二九~三二年
「論理学および形而上学にかんするエルラソゲソ大学講義
みなさん! 私はあなた方に論理学を講義します。しかし私は、たとえ私があなた方にもまた、完全さを期して、論理学を歴史的に熟知させるだろうとしても、あなた方に論理学を論理学がふつうに教えられているような様式で講義するのではありません。私は思惟論を認識論として・形而上学として講義します。したがって私は思惟論を、ちょうどへーゲルが思惟論を把捉し叙述したと同じように、講義します。けれども私は思惟論を、へーゲルの諸言葉のなかで且つヘーゲルの諸言葉をもって講義するのではなくて、もっぱらへーゲルの精神で講義するのであり、また思惟論を文献学者として講義するのではなくて、哲学者として講義するのであります。しかしそれにもかかわらず私はへーゲルとは異なって、思惟論を絶対的哲学–最高の哲学・最終の哲学–の意味で講義するのではなくて、単に哲学の機関の意味で講義するにすぎません。しかしまさに哲学の機関がそれ自身哲学でなければならずまたは哲学を与えなければならず、認識の機関がそれ自身哲学でなければならずまたは哲学を与えなければなりません。形而上学の意味での論理学は従来の哲学史の一つの必然的な成果であります。それ故に最も適切な論理学入門は哲学史の叙述であります。」(p231)
■【フォイエルバッハはヘーゲルの論理学を認識論に変え、しかも、認識論を認識の機関に変えている。それが唯物論的で人間的だと考えているのだろう。こうして論理学が破壊される。】
一八四三~四四年
『将来の哲学の根本命題』
「客観的精神!」–それは何であるか? 客観的精神とは、他の人々に対してそこに存在しているような〈私の精神〉であり、私の諸著作のなかにある精神である。しかしこの客観的精神は主観的精神・私の精神・この人間の精神ではないのか? 私は人間を彼の諸著作から認識するのではないか? もし私がゲーテの諸著書を読むならば、そのときは私はゲーテを読むのではないか?
■【ヘーゲルの客観的精神を理解するには、哲学史上の客観性の意味を理解しなければならない。哲学的な客観性は実体を意味している。主観に属さないこと、無限的であること。それをが客観的世界に発見されなかった歴史的段階において、それは精神の内部に見つけ出す以外になかった。またそれは精神の内部に蓄積されていた。そのために、主観的精神と区別される客観的精神が生まれた。フォイエルバッハの言う精神は、単なる意識を意味するだけで精神の内容を問題にしていない。】
「科学は生命の謎を解かない。」私はそのことに異存はない。しかしそのことから何が帰結するのか?あなたが信仰へ走るということか? それは小難を免れて大難にあう(降雨が雨だれになる)ということを意味した。〔そうもゐもではなくて〕あなたが生活へ・実践へ移行するということが大切である。理論が解かないような諸懐疑をあなたに解いてくれるのは実践である。(p268)
■【理論の難問は理論的にのみ解く事ができる。理論的難問を実践で解くことはできない。】
(2013.12.23)