「浮雲」はこうして何を現実的と考えるか、現実とは何かという問いを近代文学に係わるすべての人々に問いかけ、昇的立場に立つのか、文三的立場に立つのかを問い、文学評価の階級性の試金石となっている。
商品経済の発展は、園田家に進入する過程ですべての人々に各々の立場にふさわしい歴史的果実をもたらしている。文三に与えられるのは現実の本質的諸関係を認識する能力である。この流れの中で道徳的批判の立場に止まることは無力であるだけでなく反動的であろう。文三は昇に対抗する現実的力を得ておらず、–「風が悪い」と四迷は書いている–だからこそ昇は露骨に嘲笑するのであるから、ただ我慢しておれはよい。力関係がかわらないかぎりこの種の論争に勝ち目はない。「なまじっか此方から手を出しては益々向ふの思ふ坪に陥って玩弄されるばかり」(第一巻84頁)である。多少とも批判意識や自尊心のある人間なら昇の嘲笑に対する道徳的反論の無意味を感じとり、文三の心情を理解するだろう。明らかな負け=我慢以外はすべて昇を喜ばす無駄なあがきである。負けが必然である時は負けであることを知っていなければならない。道徳的批判は負けが必然である時の意識形態であり、まずこの意識が否定されねばならない。
道徳的批判は昇の俗物根性の基盤である金と地位が持つ社会的力のメカニズムにも、昇が持つ俗物根性以外の精神的領域にも視野の及ばない偏狭な意識である。この一面的で現象追随的批判を、全面的、本質的批判と思い込んで昇と論争し自分の優位を誇るならば道徳的観念に凝り固まって自分の置かれた立場を認識することのできない無知な道化になるだろう。昇との論争に勝つには力関係の変化が必要であるが、そこに至るにはまず偏狭な道徳的批判の立場を脱皮していなければならない。昇は俗物として幸福であればよい。文三は道徳的批判を越えた質的に新しい思想的批判=現実の本質の認識を獲得することによって、昇批判が負け惜しみではなく、昇批判の立場によってのみ得られる歴史的意識の獲得であることを証明できる。第二篇での負けは、道徳的批判の立場を克服し思想の世界に入るために必ず通過すべき精神的発展の一段階である。
道徳的批判から認識への発展は文三の立場の必然である。しかし、立場は直接には意識化されず、意識上の対立によってのみ歴史的立場の自己認識まで深化する。第二篇は、対立的立場から発生した意識の対立によって、文三の意識が自己の立場の認識へと曲げ戻されるように構成されている。道徳的批判が自己認識へと深化するためには昇やお政の卑俗さを十分に描くことによって文三の道徳的批判の正当性を明らかにし、なおかつ昇やお政がその俗物根性の基礎である現実的立場の優位によって文三の批判を完全に否定しうるように(中村氏が「しかしこの場合の二人の口喧嘩は明らかに文三の負けです」と感じるほどに)描かねばならない。昇やお政に道徳的正当性の無力を嘲笑されることによって–昇やお政は自分の勝利を誇らずにはいられない–文三は一般的・歴史的・本質的解決を望まぎるをえなくなる。第二篇は昇やお政が文三を思想の世界に追いやる役目を果たすように構成されている(4)。昇やお政が露骨に俗物でありながら文三に対して明らかな優位を誇り、誇ることによって一層俗物的である彼らを反撃できないという文三にとって非常に困難な、歴史の必然によって与えられた構成のなかで初めて文三は無力な道徳的批判の立場をうろつかずにすみ、昇との力関係を変化させるための基本的条件である思想獲得の準備ができる。だから「負けるが勝ち」である。批判的リアリズムに描かれる苦悩は批判の正当性を確信しつつも批判の対象を現実的に否定する力を、したがって対象の思想を越える具体的思想を発見できず、対象の否定性と堅固さを同時に感じとるという歴史的性格による独特の複雑さと深刻さを持っている。新しい思想を生みだそうとする過渡期に特有な意識形態である。批判的リアリズム以前の勧善懲悪小説は道徳性の優位と悪の敗北を描く。善良な人物の安易な勝利を構成することによって肯定的人物の質を下げ、作者の主観的な教訓が支配する単純な世界を描くことによって普遍性=客観性を失い、このことによって道徳的批判の正当性さえも失うことになる。道徳的立場の発展的否定によって初めて道徳的批判の正当性は維持される。
(4)このような描写の基礎はすでに述べた各々の意識と立場の典型化である。お政の言葉が力をもつのは、立派な心掛だけでは生活できないとか、免職が親不孝になるといった文三が身にしみて感じている事実をしゃべっているからである。俗であるのは、この事実を歴史的発展形態としてでなく、道徳性や昇の現実性という個人の属性によって説明するからである。中村氏の批評の基本的内容はすでに昇とお政の言葉で簡潔に書きこまれている。
第二篇第十一回を四迷が「負けるが勝ち」とし中村氏が「明らかに文三の負け」とするのは、二人の思想的対立による。四迷は昇批判から出発しこれを前提とする。道徳的批判が昇に対して正当であっても無力であることを知っている四迷は、昇の俗物根性を悪とし文三を俗物でないとすることで満足するほど俗でも単純でもない。昇に対抗するために批判をさらに徹底しこの現実的力の批判、すなわち昇の現実的力に対抗しうる現実的力の発見へと、すなわち昇に対する個人的批判から現実の社会的本質の認識へと深化する。文三と昇の利害の社会的対立は昇の社会的力に対する文三一般の対立物としての力、歴史的必然の原動力であり現実の否定的契機としての文三の未来の現実を含む。本質的連関の中では現象とまったく逆に文三の勝利と昇の敗北が発見される。この社会的本質=歴史的必然こそ現状の勝利者である昇の現実性の限界をなす対立的現実であり、決して覗いてはならぬ秘密である。そしてこれを暴こうとするのが昇批判を貫徹しようとする四迷の批判意識の進行形態であり、「浮雲」のリアリズムである。
四迷が昇批判によって文三、お勢、昇の「人情世態」の社会的本質へと深化するのにたいして、昇を肯定する中村氏は「浮雲」の世界を現実的昇が出世し倫理的文三が破滅するという現象以上には分析しない。現象以上とは人物の運命を人物相互の社会的関係によって説明することであり、現象的とは個人の運命を個人によって説明することである。文三は倫理的であるがゆえに破滅するという中村氏の倫理的は非現実的=現実の役に立たない=現実生活では破滅するという以上の意味を持たない。昇は現実的であるがゆえに勝利するという場合の現実的とは出世する能力を持つという意味である。因果関係の表現形式をとっているが同じ現象を言い替えただけの同語反復にすぎない。これがもったいぶっているくせに無内容な私小説的批評方法の秘密である。
このような平板な同語反復の世界では人物相互間の関係は内的関係ではなく単純な表面的対比になる。中村氏は文三の倫理性から出発し、道徳的批判の無力から昇が現実的で正しいと結論する。そしてこの現実的観点から文三の批判に引返し文三=四迷=倫理の立場の崩壊、つまり文三の敗北と考える。中村氏は昇の現実性と文三の倫理性を各々の長所として評価し、同じ事を逆に弱点としても評価する。四迷が昇批判の徹底として両者を段階的に否定していくのに対し、中村氏による人間関係の評価はあれもこれも良くもあり悪くもあるという単純な折衷主義に終わる。昇を四迷ほどに否定的に評価できず、文三の道徳的批判の無力が昇を肯定する根拠になると思うのが中村氏の感受性の階級性である。
中村氏にとっては、現実的昇になって出世するか、倫理的文三になって破滅するか二つに一つである。この限定された世界で倫理的にいきるべきか現実的に生きるべきかという深刻な葛藤が生じる。倫理に生きれば破滅である。現実的に生きれば倫理に欠ける。人間は生きなければならず、生きてこそ人間であるから、現実的たらぎるをえない、しかし人間であればこそ倫理に生きようとする理想性を持つのである(5)。
四迷は倫理性を非常に強く、純粋と言えるほど強く持っていた点で非凡である。しかしあまりに純粋であり、つまり現実性に欠けていたために現実生活の厳しさの前に敗北した。常識外れに倫理的であり、性格破産者、自意識過剰と言える。しかし性格破産者となるほどに倫理的である四迷は非凡で純粋で偉大である。しかし…
終わることのない深刻な、しかし平凡な、考えても悩んでもなんの意味もない葛藤である。深刻であるのは解決が不可能だからである。解決が不可能であるのは、不可能なように問題が設定されているからである。現実の複雑な諸条件を捨象し、倫理性と現実性だけを、しかも対立物として抽出した上で出口も成果もない二者択一に苦しんでいる。これが平凡であるのは第三の道がありさえすれば不必要な苦悩になるからである。
(5)「普通の人間ならばいつか忘れ去ってしまう少年の理想を彼は正直に執拗に追求し続けた。このような愚かしい生き方はあるいは時代遅れと一笑されるかもしれない。だが、この一見愚かで無謀な彼の一生を貫いた「正直」こそ古風で新鮮な人間が人間らしく生きるためにもっとも必要なものだと私は考えている」(十川信介「二葉亭四迷論」219頁)愚かさが人間らしいと言われて喜ぶにはよほど愚かでなくてはならない。幸い四迷は愚かでも無謀でも古風でもなかった。
昇が出世するには文三が卑屈と感じるような手段が必要である。しかし出世のために昇の生き方が必然で現実的であるとしても、これが唯一現実的で正しい生き方になるわけではない。昇の生き方が必然的であるように文三の生き方も必然的である。昇的意識が必然であるように文三的意識も必然である。明治の現実は両者の対立によって構成されているのに中村氏は昇だけを現実的と認め(6)、昇の必然的対立物である文三の生き方や意識の現実性を否定する。昇の生き方だけを現実的と考える一面性が中村氏的、昇的思想の限界であり現実に対する無批判性である。昇の勝利だけを現実的とした上でその不合埋や文三の悲劇を論じることは批判ではない(7)。批判とは昇の生き方を必然にする現実の中に、それを否定する新しい現実を発見すること、あるいは昇と文三の現実的関係を正確に分析することを言うのであって、現実について善し悪しを論ずることを言うのではない。
(6)「彼は『実世界』においては葉山の正しいことは知っている。だがどうしても葉山にはなり得ない彼はその実世界において、自己の『純全』な愛情のいかに無能力になるかは明瞭に意識している。」 (中村光夫「二葉亭四迷論」46頁)中村氏は実世界と純全な愛情の往復運動を繰返している。
(7)「そして彼の僅かに明かす点は唯一、或る時代に真に苦しんだ人間の言葉は決して滅びぬという、単純な、同時に強力な事実である。」(中村光夫「二葉亭四迷論」119頁)真に苦しむくらいで言葉を不滅にしてくれるほど歴史は単純ではない。苦しみ自身が偉大であると考えるのは幻想である。四迷がどれほど苦しんだかをではなく「僅かに残した制作」の歴史的意義を規定するのが批評の役割である。
中村氏の思想世界では現実はごく単純な形式で与えられている。現実とは何かという問題は解決されており考察から排除されている。「浮雲」に写実された現実が分析されるのではなく、前提された現実についてあれこれの感想を述べる退屈な世界がはじまる。現実の理解ではなく、現象の様々な言替えや、金儲や出世はきれい事ではすまされないとか正直者は馬鹿を見る程度の内容が難しげな言い回しで書き綴られている。だから中村氏を何頁読んでも「浮雲」の内容について何一つ知ることができない。
このように、中村氏の思想の特徴である無批判性・無内容は、原理として昇の立場に立つ文三批判であることによる。批判がほとんど文三=四迷の否定的側面の説明に費やされているのも中村氏の昇的立場を示している。中村氏を受継ぐ批評では昇的立場はより鮮明に打出されており、その無批判性と無内容も一層はっきりしている。
要するに文三と彼等の対立は関氏も指摘するように理想主義者と現実主義者の対立なのだ。「万事に抜目のない」 「疵瑕と言っては唯大酒飲みで浮気で、しかも針を持つ事がキツイ嫌ひといふばかり」のお政、「とにかく才子」の昇、彼らは悪人ではない。俗物の彼らを否定するのは、文三の視点に立つ時に可能であり、彼らから見れば否定されるべきは無能な文三であろう。俗物根性は悪、であろうか、逆にいえば文三のごとき観念的人物は善であろうか…極的に言えば、「浮雲」の対立点は、善悪ではなく想実である」 (十川信介「二葉亭四迷」98-99頁 筑摩書房 昭和46年)
このくだらない自問自答が中村氏的方法の帰結である。すでにみたように善悪の対立など論外である。文三と昇で基準の異なる善悪などを二人の対立に持ち込むのは混乱を持ち込もうとしているのかあるいは自分が混乱しているのである。善悪に絶対的基準があると思い込み、自分の主観的道徳観にもとづいて「善は悪に勝つものとの当推量によりて」(四迷)作品を構成するのが勧善懲悪小説である。「浮雲」が近代小説の出発点となるのは、善悪という偏狭な価値基準を捨てて人物を社会的利害の対立にもとづく諸対立の発展形態として描いたからである。現実の諸関係は善悪で総括できるほど単純ではない。文三と昇の対立関係は無限である(8)。第一篇第二回には展開の前提となる諸対立が細かに書き込まれており、文三の免職後は昇の出世との対立を基礎にした諸対立が刻々変化発展し再編されていく過程が描かれている。我々読者は諸対立の全体を、その中で文三と昇が互いの対立をどう感じ、どう意識するかを含めて見渡すことができる(9)。そのような作品を前に「善悪でなく想実である」などと「鯨は野菜ではなく魚である」式の突拍子もない断定を下すのは無理解の限度を越えている。昇の俗物根性を批判することを観念的と呼び、出世のために手段を選ばぬ昇のやり方を現実的と呼び、しかも二人の対立を主義の対立として説明するのは、あまりにも現実離れした観念的方法である。
お政自身おそらく気がついていないのだが、彼女の怒りは、世の生活者大衆が、世間知らずの青二才の知識人にたいして潜在的に胸の奥にたくわえている感性の爆発ではないだろうか。自分の失業をあたかも他人事のように「出来た事なら仕方がない」とうそぶく神経に、生活者はおのれの生活思想にたいする最大の侮辱を感じるのは当然といわなければならない。…本田昇は注意して読めば決して悪玉に仕立てられていない。文三の倫理と昇のいわば大人の生活的知恵とが歯み合わないのが実相なのだ(桶谷秀昭「二葉亭四迷『浮雲』 「文学と歴史の影」337頁・1972年)
この批評は内容の低俗さの点で一層進化している。中村氏の戯画の戯画である。桶谷氏は中村氏や十川氏の「潜在的に胸の奥にたくわえられた感性の爆発」を押え切れなかったらしい。昇やお政を弁護するにはもう少し一般化し抽象化してしゃべる必要がある(10)。昇の代弁者であることがはっきり分るようでは昇のイデオローグとしては落第である。文三や四迷を露骨に否定すれば中村氏の系統全体が昇の弁護に力を注いでいるという社会的役割が明らかになり、かえって読者を正しい認識に追いやってしまうことに桶谷氏は気づいていない。四迷が日本的俗物根性の典型として見事に描いた昇を「注意して読めば決して悪玉に仕立てられていない」と説明することを任務にするとは何というみじめなイデオロギーであろう。四迷が「悪玉」の社会的本質を描いたことによって「悪玉」の単純な規定を越えたことが桶谷氏には「悪玉」でないと見える。
(8)現実は時間的にも空間的にも無限の連関すなわち対立の中にある。お政の皮肉のニュアンスの一つ一つ、お勢の言葉のはしばしまでが相互に次々からみあって現実過程を構成している。文三とお勢の関係を規定するすべての要素を数え上げることも、諸要素の連関の仕方を規定し尽くすことも不可能である。しかし無限の対立は相殺され諸対立の合力としての必然性が構成される。「小説総論」に言う意と形への二重化が現実過程で進行する。無限の諸対立を整理し、諸要因の発展の一契機として組み込んでいくのが基本的矛盾であり、「浮雲」で言えば文三と昇の社会的立場の対立である。
(9)「旧思想=士族=正直=善玉として孫兵衛、新思想=同としての文三、新思想=町人風=狡猾=悪玉としての昇、旧思想=同としてのお政の形づくる四角形、その間を動揺するお勢…を描くことによって、当代日本人の主体性の欠如を諷刺・批判しようとしたのが「浮雲」の作意だった。(関良一 「『浮雲』の発想」)単語をむやみにイコールで結ぶ雑な思考は別にしても、社会関係を算数で解くことができないことぐらい理解すべきである。十川氏はこれに対して楕円形といっているが(前掲「二葉亭四迷論」103頁)これも大した改善とはいえない。これは要因を数え上げ並べるだけの折衷主義である。
(10)この批評では「抽象的」という言葉を「具体的」に対立する概念として、内包する規定が少ないという意味で使っている。例えば「『浮雲』製作の当時、彼が『日本の青年男女についてぼんやり…有っていた観念が抽象的とよび得るほど明確な、そして清純なものであったか否かはさておき」(中村光夫「二葉亭四迷論」80頁)というような明確とか清純とは何の関係もない。
昇のイデオローグは文三を青二才と呼び、昇やお政を生活者と呼び、そのことが作品批評として何か価値あるものと思っている。曖昧であろうと露骨であろうと昇の弁護は思想にならないし批評にならない。四迷は「生活者」の能力とはどのようなものか暴露し、その俗物がどのようにして文三を孤立させるかを描き、そのことによって理想主義や道徳的批判の無力を明らかにするという思想的役割を果たしたのであるから、昇を弁護しようとすれば四迷が描いた文三と昇の本質的連関、つまり「浮雲」の内容全体をすべて捨象しなければならない(11)。具体的分析は昇の否定になるように描かれているからである。「浮雲」の内容から離れ、青二才式の罵倒や、倫理的だが無能といった同語反復以上に進めないのが昇的立場の必然である(12)。中村氏の系列は昇を批判的に見ることができないという感受性における階級的限界を持っている。昇を多少とも肯定するかぎり批評の意図や努力や頭脳の生理学的質などという個人的特質は問題にならない。その意図と論理の質は彼が擁護しようとする利害によってすでに与えられている。昇を擁護するのは無内容であり俗物でありそれ以外ではありえない。
(11)理想や倫理を論ずる人間は他方で生活者を論ずる。理想を語ることが多ければ俗気も多い。理想家が多ければ俗物も多い。俗物の二つの意識形態に対立するのが、現実の条件に従うという四迷の思想である。現実の条件に従う能力がないから理想に走りまた、妥協する。文学史上では自然主義者のように、理想と道徳と性欲を主な住家にしてぐずぐず悩むのである。
(12)一九八六年九月に出版された桶谷氏の「二葉亭四迷と明治日本」(八六年から『文学界』に連載された)も、中村氏の「二葉亭四迷伝」(一九五七年)から一歩も出ていない。無内容が露骨になっただけである。
以上のように、中村氏に対する批判は「浮雲」の分析とまったく同じ展開になる。これは四迷が明治の現実を文三の社会的立場から写実し、中村氏が昇の立場から批評しており、作品内容が中村氏の批評と対立的に展開しているからである。中村氏はごく常識的な道徳的批判の立場におり、四迷はその道徳的批判の克服を基本思想にしている(13)。中村氏は現実を無批判的に肯定し、四迷は否定的現実を発見しようとしている。中村氏は永遠に現象にへばりついているが、四迷は現象を否定して本質へ深化しようとしている、等々。
中村氏が四迷論の一大系列をなしているのは、その常識的判断が無思想のゆえに昇弁護の模範となるからである。批評史上の力関係も「浮雲」と同じように昇の圧倒的優位のもとで展開してきた(14)。「浮雲」の不当な評価さえ、「浮雲」の写実の探さと、提出した課題の大きさを証明している。
(13)正直についてのたった一つの文章が四迷の論理思想(「正直」が思想??)として持上げられるのは四迷が道徳的批判の立場にいると思込んでいるからである。この「正直」をもって封建的という批評さえあるが精神史を「正直」で区分できるなどと考えるのは歴史に無知な文学者だけだろう。
(14)桶谷氏がこれほど露骨に文三を否定できるのは社会的力関係による。否定形式の変化は批評が書かれた時代の精神史に属するからここで桶谷氏を論ずる必要はない。「浮雲」理解に必要な限りで桶谷氏の無理解のあり方を理解すれば十分である。