メモの 1 で、都市論なんか10行以上とても読めない、と弱気なことを書いたら、高校の教師に、認識が甘いと、お叱りをうけた。高校の教科書にあんな文章が載っているらしい。それは高校生も教師も大変だろう。義務としてあんなものに一時間も接していたら頭がどうにかなってしまう。どうにかなってしまっている分には平気だろうが、変になるまでには相当に苦しまねばならない。いづれにしても世間知らずと現状認識の甘さは認めねばならないと悟った。
世間知らずにとってネットは非常に有力な武器になる。昨年、地上には熊が出るし、頭上には熊鷹が飛ぶほどの山奥で仕事をしていたとき、民宿でパソコンを開けたら、時々メールで質問が入っていた。いま山仕事中で、資料がないので正確な返事ができません、そうですか、ここも結構田舎ですとかいうやりとりをしていたら、その田舎というのが、ニューヨークの郊外だった。ニューヨークと紀伊山地の山奥で特に費用もかからずに通信ができる。大変便利になった。順番を逆に言えば、ニューヨークともパリとも特別に費用もかからずに通信しながら、身体中を日に焼いて、目が落ち窪んでしまうような仕事ができるということである。カンボジアでは、不発弾や地雷を恐れながら、食うために光ファイバーケーブルを埋設する仕事をしている。いかにも資本主義らしい現象である。最先端の技術もまず利潤のためにあって、そのあと、人類全体の役にも立つ。大いに役立たせてもらっている。できることなら、ニューヨークの真ん中に住んで、ニューヨークの真ん中にいながら、日本の山奥とも四川省の山奥とも通信ができる、といって先端技術に驚き感謝するほうが望ましいが、そうはいかない。そんなことを言っているから認識が甘いと言われる。
(2002.1.20)