17. 彼岸過迄 1

 「作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めてゐない。実をいふと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しば々々耳にするネオ浪漫派の作家では猶更ない。自分は是等の主義を高く標榜して路傍の人の注意を惹く程に、自分の作物が固定した色に染附けられてゐるといふ自信を持ち得ぬものである。又そんな自信を不必要とするものである。・・・

東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万といふ多数に上つてゐる。其の内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、其の何人かの大部分は恐らく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くたゞの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈だらうと思ふ。自分は是等の教育ある且尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じてゐる。」

 この「彼岸過迄に就て」には「門」にたどりついた漱石の力が感じられる。漱石は抽象的な主義主張で述べることができないほど具体的で豊富な内容を描写する能力を蓄積した。漱石はこれまでの作品の系列の帰結としてこの作品の社会的位置を強く意識して 「面白いもの}を書きたいと宣言している。精神のレベルによって面白さは違う。漱石の言う「面白いもの」は「主義を高く標榜して路傍の人の注意を惹く」ことと対立している。抽象的な主義主張の標榜から具体的内容の描写への進展は文壇やインテリ精神との訣別を意味している。作品内容が高度化し具体化した結果インテリにではなく、「全くたゞの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈」の人間に作品の理解を期待している。面白さとは社会を実質的に動かしている大衆の関心と理解力に応えるだけの具体的内容を持つことである。文壇やインテリにこの作品の理解を期待できないことを漱石は意識している。

 漱石はまず表面的な面白さを求めている敬太郎を描写している。生活に余裕があり高等教育を受けている敬太郎は現実社会に接する必要に迫られておらず、社会に対する具体的な関心を持たない。彼はすでに現実社会で人間関係を形成し、それぞれの人生を歩いている人々に表面的に関係する紹介者の役割を果たしている。田口、松本、須永、森本はそれぞれ独自の矛盾を持っている。人間関係の表面的な観察とは独自の矛盾の展開における連関を理解できずに、現象的な特徴によって関係をつけることである。

 森本は敬太郎ともっとも遠い社会的地位におり、敬太郎の認識能力の限界の彼方にいる。この距離の大きさは漱石の社会認識の深さを示している。漱石の作品では後期になるほど下層の人物の精神とインテリ的な主人公との距離が大きくなる。

 「二人の間に出来た子供の死んだ話も聞いた。「餓鬼が死んで呉れたんで、まあ助かつたやうなもんでさあ。山神の祟には実際恐れを作してゐたんですからね」と云つた彼の言葉を、敬太郎は未だに覚えてゐる。其時しかも山神が分らなくつて、何だと聞き返したら、山の神の漢語ぢやありませんかと教へられた可笑さ迄まだ記憶に残つてゐる。夫等を思ひ出しても、敬太郎から見ると、凡て森本の過去には一種ロマンスの臭が、箒星の尻尾の様にぼうつと掩被さつて怪しい光を放つてゐる。」

 敬太郎の関心は子供が死ぬことや、それを助かったと言う森本の生活や精神の内容に届かない。森本の話の中で山神という言葉の使い方だけに面白さを感じるのがインテリ的な敬太郎の関心の限界である。敬太郎には貧相な体格をし、現在免職の危機にある森本が気楽に見える。敬太郎は森本の免職の話を「話が理に落ちて面白くない」と感じている。森本に資本主義社会の本質を経験的にたたき込む免職は、大学を出てこの脅威から相対的に遠い世界にいる敬太郎の精神にとって現実的な意義を持たない。職を探している点では森本と同じであるがエリートである敬太郎の困難は一時的である。「南洋の蛸狩」や「新嘉坡の護謨林栽培」等の非現実な空想に関心を持つ敬太郎は「平凡を忌む浪漫趣味の青年」とされている。

 「『貴方なんざあ、失礼ながら、まだ学校を出た許で本当の世の中は御存じないんだからね。いくら学士で御座いの、博士で候のつて、肩書ばかり振り廻したつて、僕は慴えない積だ。此方やちやんと実地を踏んで来てゐるんだもの」と、さつき迄教育に対して多大の尊敬を払つてゐた事は丸で忘れた様な風で、無遠慮な極め付け方をした。さうかと思ふと噫の様な溜息を洩らして自分の無学をさも情なささうに恨んだ。

 「まあ手つ取り早く云やあ、此世の中を猿同然渡つて来たんでさあ。斯う申しちや可笑しいが、貴方より十層倍の経験は慥かに積んでる積です。それでゐて、未だに此通り解脱が出来ないのは、全く無学即ち学がないからです。尤も教育があつちや、斯う無暗矢鱈と変化する訳にも行かないやうなもんかも知れませんよ』」

 エリートである敬太郎と「実地を踏んで来てゐる」森本の人生の対立は代助と平岡の対立を継承している。敬太郎に対する森本の真面目な言葉は酒の勢いで初めて出てきた。彼らは没交渉の精神として対比されており、平岡と代助にあった思想的対立関係もここにはない。教育が保証するエリートの地位は具体的内容に富んだ森本の経験と精神を理解する能力を失わせる。しかも森本は敬太郎の階級的優位の観点から評価すれば自分の経験が「世の中を猿同然渡つて来た」ことになることを理解している。敬太郎のエリート的地位に対する森本の優位は明確ではないがこの作品ですでに描かれはじめている。

 「だが田川さん、世の中には大風に限らず随分面白い事が沢山あるし、又貴方なんざあ其面白い事に打つからう打つからうと苦労して御出なさる御様子だが、大学を卒業しちやもう駄目ですよ。いざとなると大抵は自分の身分を思ひますからね。よしんば自分でいくら身を落す積で掛つても、まさか親の敵討ぢやなしね、さう真剣に自分の位地を棄てゝ漂浪するほどの物数寄も今の世にはありませんからね。第一傍がさう為せないから大丈夫です」

 森本は敬太郎の好奇心を真面目に扱っていない。大学を出ては森本の言う世の中の面白いことを経験できないことが階級的な制限として断定されている。森本と敬太郎の階級的分離は主体的な意志では越えられないことを前提し、現実との関係における森本の優位が確信されている。認識能力に対する地位の規定性は決定的である。敬太郎の地位に規定された森本の生活に対する関心はどんな形態をとっても好奇心の域を出ない。それが敬太郎の現実認識の限界である。

 「敬太郎は此失踪者の友人として、彼の香ばしからぬ行為に立ち入つた関係でもあるかの如く主人から取扱はれるのを甚だ迷惑に思つた。成程事実をいへば、つい此間迄或意味の嘆賞を懐にして森本に近づいてゐたには違ないが、こんな実際問題に迄秘密の打ち合せがあるやうに見做されては、未来を有つ青年として大いなる不面目だと感じた。・・・

 「僕はね、御承知の通り学校を出た許でまだ一定の職業もなにもない貧書生だが、是でも少しは教育を受けた事のある男だ。森本のやうな浮浪の徒と一所に見られちや、少し体面に係はる。』」

 敬太郎の森本に対する「或意味の嘆賞」は些細な実際問題で修正される。敬太郎の学歴は社会的威力を持っており、敬太郎は生活上の利害に関われば森本との関係を否定する。こうした日常的な利害関係の経験の蓄積によって敬太郎は青年期を脱し、社会人としての具体的階級的精神を形成する。敬太郎のこの階級的利害は彼の性格や意図とは独立した、彼の精神を規定する客観的本質である。敬太郎の意識がこの地位による規定を越えることはできないという端的な描写はこれまでの作品の成果による高度の規定である。漱石はこの現実認識に基づいてこれからの作品で非常に大きな成果を上げている。

 「敬太郎に須永といふ友達があつた。是は軍人の子でありながら軍人が大嫌で、法律を修めながら役人にも会社員にもなる気のない、至つて退嬰主義の男であつた。少くとも敬太郎にはさう見えた。尤も父は余程以前に死んだとかで、今では母とたつた二人ぎり、淋しいやうな、又床しいやうな生活を送つてゐる。父は主計官として大分好い地位に迄昇つた上、元来が貨殖の道に明らかな人であつた丈、今では母子共衣食の上に不安の憂を知らない好い身分である。彼の退嬰主義も半ばは此安泰な境遇に慣れて、奮闘の刺戟を失つた結果とも見られる。といふものは、父が比較的立派な地位にゐた所為か、彼には世間体の好い許でなく、実際為になる親類があつて、幾何でも出世の世話をして遣らうといふのに、彼は何だ蚊だと手前勝手許並べて、今以て愚図々々してゐるのを見ても分る。」

 須永のように生活に余裕のある人物は社会に出る可能性をより多く持ちながら余裕のためにそれを拒否しているように思われる。余裕のある地位にいる者自身もこのように考える。しかしそれは須永の表面的な観察であり須永の現実はまったく違った矛盾を孕んでいる。現実には須永のように余裕のある地位にある者は自分の地位と状況を自由に選択しているのではない。敬太郎に自由と見える須永こそもっとも地位に規定された不自由な選択肢の限度内を生きている。須永は余裕のある生活に特有の矛盾を認識することによって「虞美人草」の甲野に内在する悲劇を体現し始める人物であり、退嬰主義とはまったくかけ離れた人物である。

 「彼は此時忽ち森本の二字を思ひ浮かべた。すると其二字の周囲にある空想が妙に色を変へた。彼は物好にも自ら進んで此後ろ暗い奇人に握手を求めた結果として、もう少しで飛んだ迷惑を蒙むる所であつた。…と、斯う考へると、彼の空中に編み上げる勝手な浪漫が急に温味を失つて、醜くい想像から出来上つた雲の峯同様に、意味もなく崩れて仕舞つた。けれども其奥に口髭をだらしなく垂らした二重瞼の痩ぎすの森本の顔丈は粘り強く残つてゐた。彼は其顔を愛したいやうな、侮りたいやうな、又憐みたいやうな心持になつた。さうして此凡庸な顔の後に解すべからざる怪しい物がぼんやり立つてゐるやうに思つた。」

 森本は敬太郎にも須永にも直接的には関係ない。しかし「恐らくはのたれ死といふ終りを告げる」森本は、敬太郎が観察するすべての人々の運命と多くの媒介項を経て本質的に関係している。敬太郎にとって森本が現実的な意味を持たず、ぼんやりした印象しか持たないとされているのは彼ら相互の距離の大きさを示している。須永の世界の具体的認識と、森本の世界との距離の理解は現実社会の認識の同一的な発展過程である。

 「報告」では、恋愛の社会的理解の方法が解説されている。森本の残したステッキの謎や、占いや、田口の依頼による探偵事件等に対する敬太郎の関心は現実の人間関係に届かない。敬太郎はステッキを通して自分の行動に森本との関係をつけ、やはり空想によって、田口、松本、須永、千代子に関連をつけている。田口は敬太郎をからかって松本と千代子の関係について、どんな性質か、素人か玄人か、夫婦か兄弟か細君か情婦か、処女か細君か、夫婦ではないにしても肉体関係があるかどうか、等々と質問している。これは現象に対する表面的観察の実例であり、「主義を高く標榜して路傍の人の注意を惹く」愚かなインテリの感じ得る面白さのレベルに対応している。

 「肉と肉の間に起る此関係を外にして、研究に価する交渉は男女の間に起り得るものでないと主張する程彼は理論家ではなかつたが、暖たかい血を有つた青年の常として、此観察点から男女を眺めるときに、始めて男女らしい心持が湧いて来るとは思つてゐたので、成るべく其所を離れずに世の中を見渡したかつたのである。年の若い彼の眼には、人間といふ大きな世界があまり判切分らない代りに、男女といふ小さな宇宙は斯く鮮やかに映つた。従つて彼は大抵の社会的関係を、出来る丈此一点迄切落して楽んでゐた。停留所で逢つた二人の関係も、敬太郎の気の付かない頭の奥では、既に斯ういふ一対の男女として最初から結び付けられてゐたらしかつた。」

 社会的な人間関係を経験していない敬太郎は男女関係を社会的関係としてではなく肉と肉の関係として観察している。敬太郎の関心は無経験で「暖たかい血を有つた青年の」自然な観察として「肉と肉の間に起る此関係を外にして、研究に価する交渉は男女の間に起り得るものではないと主張する」愚かなインテリと区別されている。この作品では須永と千代子の関係は「男女といふ小さな宇宙」とはっきり区別されるほど深く社会的に描かれている。漱石は無経験な若者や無能なインテリには「人間といふ大きな世界」と「男女といふ小さな宇宙」を区別することが困難であり、この作品が理解されないであろうことを予期している。

 敬太郎の目には須永と千代子はよい夫婦になると思われる。しかし「知らない人から見ると一寸さう見えるでせうがね。裏面には色々複雑な事情もある様ですから」と言われる通りの深刻な対立関係が潜んでいる。停留所での敬太郎にとって松本と千代子の関係も秘密であった。この秘密は後に田口の説明で明らかになる。須永と千代子の関係には知らされていないという意味とは違った秘密がある。現象の背後に沈潜している法則が秘密である。須永はその秘密を理解しようと苦悩している。顕現しているすべての現象を分析することで須永と千代子の関係とは何か、須永とは何かを現象の背後に潜む客観的な法則として理解することが須永自身の課題である。

 須永の父が早く死んだことは須永を規定する重要な要素である。それは父を失った不幸においてではなく、父の残した財産が須永から社会と接触する機会を奪った点においてである。須永は父の残した財産によって孤立状態を徹底することで孤立状態に内在する矛盾を純化し、それを自己の本質として認識しようとしている。

 須永は自分を説明するためにまず家庭の状況を分析している。社会的活動から隔離されている須永にとって自分を理解するための主な材料は家庭の状況である。須永の狭い生活環境から彼を規定する本質的な社会的要素を抽出するのは非常に困難である。須永の自己認識は自分の出生の秘密に惑わされて容易に社会的本質に届かない。須永は現実社会からの孤立を確定するとともに自己懐疑に陥り、その結果自分の出生に対する疑惑を持つようになった。社会的孤立の自覚と、その克服のための自己認識の衝動が出生に対する疑惑として現象している。

 「其時は夫で済んだが、両親に対する僕の記憶を、生長の後に至つて、遠くの方で曇らすものは、二人の此時の言葉であるといふ感じが其後次第々々に強く明らかになつて来た。何の意味も付ける必要のない彼等の言葉に、僕は何故厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見ても丸で説明が付かなかつた。」

 須永が母の言葉に疑惑を持つ理由を秘密があったからとするのは愚かな同語反復である。出生の秘密を持つことと疑惑を持つことは直接的関係にない。須永の出生に対する疑惑は現時点での自己認識の試みである。現在の須永の社会的本質は千代子との関係で明らかになる。千代子との関係は須永が持つ主要な社会的関係である。千代子との関係に現象する須永の社会的本質を覆い隠すのが、母との関係と出生の秘密である。出生の秘密が須永の性格を規定しているのではなく、彼の現在の人間関係が出生の秘密に対する疑惑を生み出している。須永と母との関係は円満であり、家庭の状況には出生の秘密を問題にする原因がないこともはっきり書かれている。

 須永は父と妹を亡くし、母と二人だけの愛情に満ちた生活をしている。須永は自分に対する愛情だけを支えに生きている母のためにできるだけのことをしたいと考えているが、須永が母の希望に沿えない二つの事情がある。それは社会的な成功と千代子との結婚である。須永はまず自分が社会的な成功を収められない事情を説明している。

 「現に一度はある方面から人選の依託を受けた某教授に呼ばれて意向を聞かれた記憶さへ有つてゐる。夫だのに僕は動かなかつた。固より自慢で斯う云ふ話をするのではない。真底を打ち明ければ寧ろ自慢の反対で、全く信念の欠乏から来た引込み思案なのだから不愉快である。が、朝から晩迄気骨を折つて、世の中に持て囃された所で、何処が何うしたんだといふ横着は、無論断わる時から付け纏つてゐた。僕は時めくために生れた男ではないと思ふ。・・・

 斯ういふ僕の我儘を我儘なりに通して呉れるものは、云ふ迄もなく父が遺して行つた僅ばかりの財産である。もし此財産がなかつたら、僕は何んな苦しい思をしても、法学士の肩書を利用して、世間と戦かはなければならないのだと考へると、僕は死んだ父に対して改ためて感謝の念を捧げたくなると同時に、自分の我儘は此財産のためにやつと存在を許されてゐるのだから余程腰の坐らない浅墓なものに違ないと推断する。さうして其犠牲にされてゐる母が一層気の毒になる。」

 財産や地位の保護下にある状態を余裕だとか高尚だとか自由だと肯定的に評価するのは代助までである。須永は財産の庇護下にある自分の精神を信念の欠乏、横着、わがまま等々と否定的に評価している。須永は自分の意志が対立や困難の中で貫徹する力を持たず、財産に保護された範囲に限定されていることを理解し、自分の自由を腰の座らない浅はかなものだと言っている。社会に出て時めくことは批判の対象ではなく、財産のために不必要になり能力として不可能になったことが意識されている。これが須永の現象認識のレベルであり、自己認識の出発点である。

 「僕は如何なる意味に於ても家名を揚げ得る男ではない。たゞ汚さない丈の見識を頭に入れて置く許である。さうして其見識は母に見せて喜こんで貰へる所か、彼女とは丸で懸け離れた縁のないものなのだから、母も心細いだらう。僕も淋しい。

 僕が母に掛ける心配の数あるうちで、第一に挙げなければならないのは、今話した通りの僕の欠点である。然し此欠点を矯めずに母と不足なく暮らして行かれる程、母は僕を愛してゐて呉れるのだから、唯済まないと思ふ心を失なはずに、此儘で押せば押せない事もないが、此我儘よりももつと鋭どい失望を母に与へさうなので、僕が私かに胸を痛めてゐるのは結婚問題である。結婚問題と云ふより僕と千代子を取り巻く周囲の事情と云つた方が適当かも知れない。夫を説明するには話の順序として先づ千代子の生れない当時に溯ぼる必要がある。」

 須永は財産によって社会から隔離された結果家名を揚げる能力を失ったことを自覚している。これは「それから」の代助の本質であった。代助の秘密であった社会的な無力を須永は自分の弱点として自覚しており、それは弱点であっても母にとっても須永自身にとっても本質的ではないとされている。しかし家名を揚げ得ないという須永の本質的な特徴は現実社会では人間関係上の複雑で無限的な内容を持っている。家名を揚げ得ないこととして現象する須永の社会的特徴が具体的にどのような意味を持つかを理解するのは非常に困難である。自分の無力を抽象的に無力として承認することと無力を具体的に理解することは違う。千代子との関係は須永の現実に対する無力を具体的に明らかにする人間関係である。

 須永はまず千代子との古い絆が「頗る怪しい絆であつた」こと、更にお互いに男女としての愛情を感じていないことを理解している。しかし彼らの結婚には古い絆や男女としての愛情とは違った社会的問題が内在している。彼らの結婚がどのような問題を含んでいるかは須永自身にも明らかでない。母も須永も千代子との結婚について自分の主張を明確にしていない。須永にも母にもそれを明確にできない事情、それぞれ質の違う秘密を持っている。須永が「従妹は血属だから厭だと答へた」とわざわざ書いているのは母にとって血属でないことが千代子との結婚を勧める理由であることを示している。

 「斯ういふ事情で、今迄母一人で懐に抱いてゐた問題を、其後は僕も抱かなければならなくなつた。田口は又田口流に、同じ問題を孵しつゝあるのではなからうか。仮令千代子を外へ縁付けるにしても、いざと云ふ場合には一応此方の承諾を得る必要があるとすれば、叔父も気掛りに違ひない。

 僕は不安になつた。母の顔を見る度に、彼女を欺むいて其日々々を姑息に送つてゐる様な気がして済まなかつた。一頃は思ひ直して出来得るならば母の希望通り千代子を貰つて遣りたいとも考へた。僕は其為にわざわざ用もない田口の家へ遊びに行つて夫となく叔父や叔母の様子を見た。」

 母が千代子が生まれると間もなく千代子を須永の嫁にと田口に頼んだのは須永の出生の秘密に関わる問題である。古風な精神を持つ彼女はそれを須永のためと思って現在も希望している。しかし「斯ういふ事情で、今迄母一人で懐に抱いてゐた問題を、其後は僕も抱かなければならなくなつた」という須永の言葉は真実ではない。過去の事情を知らされていない須永が千代子との結婚を問題にするのはまったく別の事情による。

 須永は千代子との関係を明らかにするために母の希望を経由して、母の意志の形式をとって千代子に接近する。母の意志はすべて須永の意志である。母に対する愛情は母に想定された須永の価値観である。母の希望と須永の希望の対立は須永自身の内的な対立であるから、母との関係で決着されることはない。須永はまず母の希望や意志を想定し、その希望の現実性を確かめようとしている。須永と千代子の結婚で現実に問題になるのは社会的、階級的関係である。父の財産を消費することに人生を費やすことで社会的能力を失い、孤立しつつある須永の本質が、社会的に成功しつつある田口との関係で明らかになる。須永の母が須永と千代子の結婚を望むのは須永の成功や財産との結びつきを考えているからではない。したがって母には階級関係は反映せず、母は須永が持つ葛藤を持たない。

 須永にとって家名を揚げることはすでに切実な欲望ではないし母の愛情の形式でも望まれていない。須永は千代子との結婚やそれによる田口の財産や出世を具体的に望んでいるわけではない。自分と千代子の関係の正体がわからないからこそ母の希望を経由して千代子に関心を持っている。須永は自分と千代子の関係で生ずる自分の感情に自分の本質、秘密があると感じている。彼は自分にも理解できない心理的葛藤に苦しんでおり、それを克服するために千代子と自分の関係を明らかにしようとしている。

 「けれども彼等の娘の未来の夫として、僕が彼等の眼に如何に憐れむべく映じてゐたかは、遠き前から僕の見抜いてゐた所と、ちつとも変化を来さないばかりか、近頃になつて益其傾が著るしくなる様に思はれた。彼等は第一に僕の弱々しい体格と僕の蒼白い顔色とを婿として肯がはない積らしかつた。尤も僕は神経の鋭どく動く性質だから、物を誇大に考へ過したり、要らぬ僻みを起して見たりする弊がよくあるので、自分の胸に収めた委しい叔父叔母の観察を遠慮なく此所に述べる非礼は憚かりたい。たゞ一言で云ふと、彼等は其当時千代子を僕の嫁にしやうと明言したのだらう。少なくとも遣つても可い位には考へてゐたのだらう。が、其後彼等の社会に占め得た地位と、彼等とは脊中合せに進んで行く僕の性格が、二重に実行の便宜を奪つて、たゞ惚けかゝつた空しい義理の抜殻を、彼等の頭の何処かに置き去りにして行つたと思へば差支ないのである。」

 無能なインテリはブルジョア的出世の可能性も能力もないことを出世の拒否だとか出世に対する批判意識だと感じる。インテリ的特質を他階級への優位だと考えていた初期作品と違って、自分のインテリ的特徴が田口に貧弱に見えることを須永は理解している。須永には「弱々しい体格と僕の蒼白い顔色」は知性の証明ではなく無力の証明に見える。須永はこの自己認識を彼の心理のあらゆる細部にわたって検証しようとしている。須永と千代子の過去の因縁による個人的関係に須永の社会的孤立と田口の成功という社会的な要因が入り込むことによって須永の心理の階級的な意味が具体的に描写されている。

 孤立したインテリの無力は「それから」の代助で明らかにされていた。この作品の課題はその無力が具体的にどのような心理を生み出しているかを理解すること、あるいはインテリの様々の不毛な心理を社会的な孤立と無能を基礎にしてブルジョアとの関係で階級的に体系づけることである。須永は自分が田口家から評価されていないと感じているものの、それは須永の内的予測にすぎず現実に証明されていない。内的な予測と現実的な証明との間には非常に大きな溝がある。ここにこそ困難があり、この溝は具体的な認識によってしか越えられない。須永の抽象的自己認識を現実化し具体化するには厳しい現実的打撃を経験する必要がある。結婚問題が母を失望させると考えるのはそれが須永自身に自己否定的認識の現実化を強いるからである。千代子との結婚問題は須永の自己否定的認識の具体化を促進するための契機である。

 「形式を具へない断りを云はれたと解釈した僕はしばらくして又席を立つた。

此事件後僕は同じ問題に関して母の満足を買ふための努力を益屑よしとしなくなつた。自尊心の強い父の子として、僕の神経は斯ういふ点に於て自分でも驚ろく位過敏なのである。勿論僕は其折の叔母に対して決して感情を害しはしなかつた。」

 須永の自尊心は自分が田口家の娘に値するかどうかという評価に対して敏感である。漱石はこの自尊心を具体的に分析しようとしている。須永の自尊心は田口による拒否を現実的に経験することを回避しようとする臆病であり、彼の内部の古い価値観、つまり田口や千代子による肯定的評価への期待を意味している。拒否の予測は現在の須永を発展的に否定する新しい意識である。孤立し社会的に無用であることを確証し自己意識に定着させるには現実的な排除の意味を具体的に経験する必要がある。内的確信に止まるとき幻想が残る。幻想が現実化の衝動を持ち、それが少しでも障害に突き当たると自己保身的な自尊心が働き、確認を恐れる臆病な心理が展開する。

 「僕は其時の千代子の言葉や様子から察して、彼女が僕の所へ来たがつてゐない事丈は、従前通り慥に認めたが、同時に、もし差し向ひで僕の母にしんみり話し込まれでもしたら、えゝさういふ訳なら御嫁に来て上げませうと、其場ですぐ承知しないとも限るまいと思つて、私かに掛念を抱いた位である。彼女はさう云ふ時に、平気で自分の利害や親の意思を犠牲に供し得る極めて純粋の女だと僕は常から信じてゐたからである。」

 千代子と須永は基本的に結婚する可能性はない。しかし千代子の性格は須永と田口の間に横たわる階級的な溝を飛び越える可能性があると須永は予測している。須永の懸念は期待と恐れの両方を含んでいる。須永の意識の表面にはまず千代子が母の希望を受け入れることを恐れる気持ちが現れている。しかし須永は懸念を持ちつつも事態を確定するための行動を取らない。千代子との関係を断念することを望んでいるのか、関係の進展を望んでいるのか須永自身にとっても明確でない。この矛盾した心理の社会的特質を明らかにすることが、須永自身意識せずに客観的に目指している目的である。

 「其時僕は適当な機会を利用してわざと叔父に「千代子さんの縁談はまだ纏まりませんか」と聞いた。それは固より僕が千代子に対して他意のないといふ事を示すためであつた。が又一方では、一日も早く此問題の解決が着けば、自分も安心だし、千代子も幸福だと考へたからである。」

 「僕は果して叔父が斯う軽く此事件を解釈してゐるなら、母の為に少し弁じて遣らうかと考へた。が、もし是が世慣れた人の巧妙な覚らせ振だとすれば、一口でも云ふ丈が愚だと思ひ直して黙つた。叔父は親切な人で又世慣れた人である。彼の此時の言葉は何方の眼で見て可いのか、僕には今以て解らない。たゞ僕が其時以来千代子を貰はない方へ愈傾いたのは事実である。」

 須永は自分で主体的に決着をつける努力をせず、自分の価値が現実に試される決定的な経験なしに事態が決着することを望んでいる。しかしそれも矛盾した一方の心理であって須永は千代子の関係が自分との関係において決着することを必要としている。須永は自分と関わりのない千代子の結婚を暗に望むだけである。田口家や千代子との人間関係が自分と関わりなく断絶することは須永の価値を決定する契機にならない。それは須永が千代子との関係によって自分を理解する機会を失うことである。

 須永の現実社会における無価値は客観的にはすでに確定している。しかし現実的人間関係における自分の肯定的役割を諦めるのは困難である。多少でも可能性があれば自分の積極性を肯定する欲望は抑えきれない。須永の実践的傾向は田口家の拒否を受け入れる傾向を持ち、その認識を阻むのが希望や自尊心や母の価値観という形式をとった古い意識である。須永の本質的利益と能力の発展は彼に残された希望や自尊心を破壊することである。自尊心の維持と破壊の欲望がせめぎあっている。インテリ的な希望や自尊心は現実的な幻滅の経験によってのみ破壊される。現実的経験によって厳しく破壊されない限り幻想と希望が残り不可解な、不快な葛藤に悩まされる。須永の苦悩によって彼に残る自尊心を破壊することが如何に困難であり、如何に重要であるかが理解できる。

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