一般に対立は同じ基盤の上でしか生じない。四迷は日本の社会全体を見渡していたから、階級的な分化が視野にあった。この意味で認識が深く広い。豊太郎の生活と意識における対立物は、豊太郎が生活の基盤としているエリートの世界にある。豊太郎が一致し、対立しているのは天方伯と相沢である。豊太郎はエリスとも関係しているから、当然エリスと一致し、また対立している。豊太郎は天方伯や相沢と基本的に一致しており、そこにおける対立が豊太郎の人生の全体を規定している。エリスとの関係はその一部分である。天方伯との関係の変化、展開によってエリスとの関係は規定される。この関係の中で相互作用がある。豊太郎にとってエリスとの関係が基本的な関心であり、重要な意義を持っている。といっても、エリスとの関係はそれ自体として、つまり独立して、他との関係の中でもっとも基本的な位置において重要な意味を持つのではない。エリスとの関係は、天方伯との関係において重要な意義を持っている。エリスとの関係は天方伯との関係に傷を付けるのではないか、エリスとの関係があっても自分をエリートとして認めるかどうかという意味でエリスとの関係は重要である。それ自体としてはつまらない関係であるから、つまらない関係であると評価されるのではないか、という危惧があるから、エリスとの関係は解消されるべきものとして、なおかつ、つまらない関係ではないという肯定的な形式で天方伯の価値観において認識され対処されなければならない。エリスとの関係は天方伯との関係において肯定的な形式で否定されねばならない。天方伯の気に障らないように解消しなければならない。
豊太郎は天方伯・相沢との関係で自己を肯定しているのであって、エリスとの関係で自己を肯定しているのではない。弁明という形式で言えば、エリスに対して弁明する必要を感じているのではない。これが全体を解く鍵になる。
天方伯との関係によってエリスの関係は認識され対処される。平たく言えば、豊太郎は天方伯に対して、私は不始末なんぞしていません、と弁明している。エリスに対する純粋で同情的で人格的であることは、エリスとの関係においてではなく、天方伯の世界の価値観において必要な対処である。だから、まずエリスを捨てることが前提で、しかも人格的でなければならず、さらにその人格性の内容が天方伯の世界の価値観ということになる。だからエリスとの関係が複雑になる。
それだけではない。豊太郎にとってエリスとの関係が、天方伯との関係において重要な意味を持っているために、天方伯の世界自身も特有の規定を受ける。天方伯の世界自体もエリスとの関係を受け入れるかどうかという豊太郎の観点から認識され、対処されている。それを前提として豊太郎とエリスとの関係は豊太郎と天方伯との関係によって規定されている。
このように複雑な関係から、単純にエリスとの関係だけを抜き出し、それが道徳的であるかどうか、あるいは弁明であるかどうか、として作品の全体的構造、基本的性格を問題にしているかのように思い込み、さらにそれによって明治の社会の全体を問題にしているかのように思い込むのは、作品と明治社会の不当な単純化である。鴎外自身は非常に狭い現実認識を持っており、複雑な構造などを意識していない。それゆえに生じた歪んだ現実認識として特有の複雑さを持っている。エリスに対する認識と天方伯に対する鴎外の特有の偏見を含んでいるために構造がややこしくなっている。
豊太郎のエリスに対する仕打ちは、冷淡で残酷で、しかも天方伯に対する弁明という屈折した虚偽に満ちている。このあまりにもひどい対処を道徳的に批判したり、弁明じみていることを批判したりすると、豊太郎とエリスの関係を直接的な関係として単純化するために豊太郎の本質を捕らえられない。このような感情的な批判は本来の内容を外れているから、豊太郎を擁護する立場からの反論が当然形成されるし、批判する立場にとってもその反批判は説得力を持っていると感じられる。そしてこの両者が対立しながら、解決できるはずもない見当違いの解釈を積み重ねていく。こうして積み上がった思想上のがらくたを取り除いていってようやく、基本的な矛盾は豊太郎と天方伯との対立であり、弁明は天方伯に対するものであるというもともとの形式にたどり着く。またこの視点はこのようにして発見しなければ具体的な作品分析が内容を持つことができない。
この基本矛盾の視点からこの作品全体を解釈するとごく分かりやすくなる。こうした多重的な誤認の構造の背後にある真の姿を明らかにし、それがどのような誤解を生みだすのかを明らかにすることが出来る。
(2002.1.23)