基本矛盾・・というのは、関係の順番の問題、いづれがより基本的で、いづれが被規定的かという問題である。『浮雲』のお勢を理解する場合、彼女の運命と「近代的な自我」は、自己を二重化することなく無意識的に大きく変化していく。それを規定しているのは、現象的に言えば昇と文三の力関係である。昇の社会的な力が商品経済の発展とともに支配力を拡大して、お勢の意識をも支配していく形態を四迷はうまく描いている。非常に視野が広く深い。
「舞姫」の場合、豊太郎と天方伯・相沢との関係と、豊太郎とエリスとの関係のいづれが基本的であるかを理解することが非常に難しい。豊太郎と天方伯との関係が基礎で、この関係によってエリスの運命は規定されている。この関係を論理として貫徹するのが難しくまたおもしろい。この三者の相互作用の構造を明らかにしなければならない。
豊太郎が持つもっとも抽象的な矛盾としては自己と他人一般が想定される。豊太郎は自己保身的であるからこれは現象的にもすぐに思いつかれる。すこし観点を変えて、肯定的なニュアンスをもって、豊太郎の自我と社会とか、自我と国家とかいうのもごく抽象的な点では同じである。しかし、どんな個人でも他人や国家や社会と同一ではない。豊太郎に限らずこうした対立関係は誰でも持っているから豊太郎の特徴づけにはならない。天方伯も相沢も豊太郎もエリスもこういう矛盾を持っている。
だから、豊太郎の特徴はこうした矛盾の上で、より具体的な矛盾において規定しなければならない。こうした規定がすでに豊太郎の特徴だと考えるのは無知である。それが豊太郎の特徴づけになっていないことを知らない。
例えば、私は階段で転んだ、それは重力があるからだ、という場合には正しくても規定にならない。重力を前提して、より具体的な関係を規定しなければ説明とは言えない。睡眠不足だったとか、疲れていたとか、気になることがあったとか、階段が不規則だったとか、何か落ちていたとか、重力と私の間を無限の諸関係が媒介しており、それをいかに具体的に豊富に規定するかが認識能力である。私が転んだことだけでなく、立っていることも、階段を登ることも、つまり地球上での諸現象すべてが重力との関係で説明できるから、重力なしには転ばなかったとしても、転んだことの特定にならない。豊太郎を規定する場合に、近代とか国家とか官僚社会とかいった言葉を連ねることが規定にならないことも同じである。それが日本の遅れた社会とか、前近代的とか、半封建的だとか言っても、それが正しい前提でも規定にならない。まして明治を封建的だとかいう観点がその中に入っていれば、抽象的な上に間違っていることになる。ところが多くの批評はこうした言葉との関係で豊太郎を規定することが社会的な歴史的な規定だと思っている。
すでに横道にそれかかっているし、長くなっているので、あとは、3 で。
(2002.1.19)