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 鴎外の作品は、「舞姫」に限らず無内容であるが、インテリには 深い内容があるように見える材料を、つまり身近で切実な材料を、深い内容があるように描いているし、自分でもそう思っている。特に「舞姫」は、エリスとの関係を扱った偶然によって深刻な内容があるように思われているし、そう思う思想上の必然がある。だから、「舞姫」がどのように理解されているかが作品理解とは別の課題として重要であると思われるので、しばらく時間をとって批評史を調べることにした。
 で、「森鴎外を学ぶ人のために」(世界思想社・1994年)という本を借りてきた。この本の編者である山崎國紀氏の「舞姫」に関する文章に、
 「建設途上の国家の中で、いかに生きるかという役割を賦された苦悩する近代知識人の原像でもあった。」とか、「この『まことの我』の問題は、日本近代文学が最初に出会った重大な精神の戦争であったと言えよう。」とあるので、近代的自我の苦悩という評価は最近まで維持されているらしい。ところが、すぐあとに、
 「ただ『舞姫』を作品の展開に即し、素朴に読んでみると、こうした「近代的自我」の問題だけでなく、豊太郎とエリスの”愛”の問題が、この作品の全体の構造を規定していることがみえてくるのではないか。」と書いているので、近代的自我の苦悩というのは単なる図式であることがわかる。自我は精神の全体であるから、本来は愛の問題も近代的自我の具体的内容とし規定しなければならないが、それは別問題とされている。近代的自我は愛とは別に単体で存在する。
 ところが、この近代的自我は愛情とは独立して、豊太郎を道徳的に肯定するためになくてはならない図式である。山崎氏の評価を見ると、1994年の段階では、すでにエリスに対する愛情は否定されている。「エリスは豊太郎にとってだんだんと負担になってくる」と書いているから、作品の本来の内容に近づいている。そして、「『罪人』意識は、他者を傷つけた加害者意識にほかならぬ。真に愛していれば、加害者意識は、かなり軽減されるはずである。しかし、一時の苦難のとき、結局利用して捨てたという意識が豊太郎を領して放さない。」として、愛情のないことが、豊太郎の罪の意識と苦悩を深くする根拠だとされている。愛情は捨てても苦悩は捨てないので、近代的自我は必要である。
 このような評価では、すでに弁解という形式は解消されている。エリスに対する残酷さは豊太郎の苦悩の深さの根拠になる。エリスに対して残酷であるほど、また愛情もなく冷酷に扱っているからこそ、罪の意識が強いと評価できるから弁明という形式は必要なくなる。弁明が豊太郎のストレートな肯定に発展している。苦悩やエリスの人生を弄ぶ思想であるが、それが具体的にどのような思想であるかは今のところ予測できない。彼らの俗物根性は大抵予想を超えている。
 今回の「舞姫」の分析とこのような評価には非常に大きな距離がある。それを埋めるには多くの論理が必要である。批評としてもこのような評価に達するには、いろいろと論理が積み重ねる必要があっただろう。その論理の流れと組み立てが日本精神史の一つの典型である。

 余談だが、この本の「鴎外と都市」という論文に、次のような文章があった。

 「その一つに、文学者(作者)森鴎外にとっての『都市』の意味と鴎外文学の中の『都市』、といった問題とがある。島村輝は、前田愛の言葉を用いて、「文学テクストを『都市というテクスト』のメタ・テクストと見ることによって、実体概念としての作者を関係概念の括弧に括ることが可能にな」ったと述べている」

 都市論という言葉を聞いたことがあるが、こんな文章を読むのは初めてである。いくら批評史を概観する必要があるといっても、これは守備範囲を超えている。これだけ無内容な文章を、二三行なら笑って済ませるが、まじめに十行以上読むことはとてもできない。こうした無内容な文章に内容があると思い込んで読めるようになるにもそれなりに訓練が必要であろうが、いまからでは遅すぎるし、時間と根気があっても、うまくいくとも思えない。

(2002.1.18)

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