11. 平凡 1

   四、「平凡」

 「平凡」は四迷が「其面影」迄の研究で獲得した思想を、当時最盛期を迎えていた自然主義に対する批判として展開した作品である。自然主義の批判者として日本のリアリズムの創始者である四迷ほどの適任者はいなかったしその後も「平凡」を越える自然主義批判は現れなかった。

 四迷はこの作品についても結局サタイヤになってしまい失敗だと言っている(1)。四迷の意図と違った形式になった点でも、批判が十分には展開されなかった点でも「失敗」であった。批評がこの言葉を手掛かりに見苦しい小理屈をこねているのは言うまでもないが見苦しさの紹介はしない。我々は四迷の基準からすれば失敗であったこの作品が日本文学史の発展上果たした役割を分析し、「浮雲」や「其面影」を描いた厳しい精神だけが実現できる自由で軽妙なサタイヤを楽しむことにしよう。自然主義作家の思想と行動は悲劇として観察するにはレベルが低すぎる。四迷も自然主義作家を、下らぬことを大げさに書さ散らすだけの無能な文士と考えていた。彼らの悩みは主観的に深刻であるほど滑稽になる。だから本来サタイヤがふさわしい。

 『平凡』かね。いや失敗して了ったよ。あれは元来サタイヤをやる心算ぢやなかつたのだ。処がどうも僕等には、いや如彼いふ題材であつたからだろう。どうしてもサタイヤになつて了ふ。本来堂々と正面から理屈をやるつもりだつたのが、いざ書いて見るとどうも冷嘲す様な調子になる。で、真面目になろう真面目になろうと煩りに骨折つたかどうしてもいけない。つい終ひまで戯謔通して了つた。その意味に於て全く失敗さ。(五巻244頁)

 文士的「平凡」とは文士世界での出世主義者にほかならない。この手の「平凡」を分析できるのは昇や葉山を描く能力を持ち、文士的「平凡」にも全く縁のなかった四迷だけである。四迷は必要に迫られて官吏にも教師にもなったが出世や金儲けには–実業は彼にとって社会的活動であった。日本におけるブルジョアの発展期を反映している–興味を持たず安定した生活を惜しげもなく捨てている。そのため後に枇評家から失敗者とか性格破綻者とか無能だとか年甲斐のないドンキホーテだとかさんざん罵倒されることになった。これは四迷の弱点であり、著名な批評家が四迷に対して持つ強みであるからやむをえない。彼らにはその堅実で立派な生活を背景に不安定で貧しく家庭的騒動の絶えない生活を哀れんだり嘲笑したりする権利がある。貧しい日本では堅実な生活を獲得すること自体大変な成功だからである。他方偉大な才能と厳しい研究によって–残念ながらこれが堅実な生活と両立しにくい–「浮雲」や「其面影」を書いた四迷はその獲得した思想力を背景に、堅実で現実的な文士、批評家がいかに非現実的な絶望的な知的生産に従事しているかを哀れんだり嘲笑する権利と能力を得ている。互いに自分の才能のレベル、思想の質に応じて対立物を批判している。だから読者も自分の力量に応じた読み方をする。基本的には四迷の自己破壊の悲劇と読むか、自然主義作家の喜劇と読むかの二つに分かれる。読み方を自由に選ぶことはできない。楽しく読めれば才能ある四迷に近く、深刻になるなら堅実な自然主義作家、批評家に近くなる。

 「平凡」第一回には自然主義作家に限らず平凡な文士の一般的特徴が描かれている。インテリゲンチャに接する機会のある人ならこんな実例をいくらでも見かけるから笑い出さずにはおれないだろう。身に覚えのあるインテリゲンチャや、特に身に覚えがあってすでに「平凡」を抜け出せない状祝や年令を獲得している文士には笑いごとではない。平凡が骨の髄まで染み込んだおかげで自分を平凡以上と思い込み、「平凡」が自分だと気付くことが出来ないほどの「平凡」にとっても、「平凡」の人生が平凡だと言う理解が広がることが喜ばしい事態でないことくらいは本能的に理解する。そこですべての平凡な批評家や作家には、この「平凡」が失敗作であり四迷の自己破壊の過程とすることが共通の利益になる。

 「平凡」な文士は一般に次のような生涯を辿る。若い時代に世の金持ちやら高官やら成功した文士やらを亡者だとか俗物だとか無能だとか罵倒し、自分こそが歴史的な画期的な仕事をしてやると自惚れているが、その仕事を実現するはずの年令に達した頃には何時の間にか家庭生活のやりくりに追われ所帯じみてしまう。歴史的とか偉大とか才能とかいう言葉は若気のたわごとだと悟るようになる。四迷のように死ぬまで社会だの思想だのに血道をあげているのは、家庭のやりくりさえできん無能な男だということが分かってくる。つまり、年の功でようやく分別が付く、現実的になる、堅実になる、生活者の論理が身に付く、等々。

 このような人生は大体次のような手順で獲得される。若いうち「どこかのサークルではちょっと名の知れた」文士になる。これが不幸の始まりで少々捨て難い居心地にグズグズしているうちに結局本物の文士になる他なくなる。貧乏であっても芸術は永いのだから言い訳はたつ。長年物書きの世界をうろうろしていれば才能はなくても物を書くことには慣れるし何とか食うぐらいの仕事にはありつける。文明が発展するにつれて文士の需要は多くなる。天才的な作品など滅多に出てくるものではないし、出たにせよ世に容れられるかどうか分からない。また容れられたにせよ「平凡」な著述の需要がなくなるわけではない。生きるために何かぬたくっていれば偶然流行にひっかかって名が売れたりする。流行は長続きしないがそれだけひっかかるチャンスが大きくなる。仕事が安定しないだけ割りのいい仕事になる。要するに文士というのも他のあらゆる職業と同じように若い時代の小さな偶然で振り分けられており、全体の量や傾向は労働力商品の市場として決定されている。このような運命を越えようとする時はじめて才能が必要となる。堅実であるには才能が邪魔になることが資本主義の場合は多いのである。

 四迷はまずこのような「平凡」の生い立ちから書き始めている。この部分は「オブロモフ」の少年時代の描写に似ている。自然主義作家の平凡さを祖母に甘やかされたお坊ちゃんとして特徴付け導入部にしようと考えたのであろう。この試みは「三十九年の半生を語るに、三十九年掛るかも知れない」として途中で打ち切っている。「オブロモフ」でも主人公の人生を決定しているのはロシアの農奴制的地主の環境であって祖母の甘やかしという個人的、教育的環境は派生的、部分的要因に過ぎない。この少年期の特徴から「平凡」に必然的に移行することなど不可能である。だから、少年時代の描写には自然主義批判の内容は含まれていない。四迷は第九回から「平凡」に仕上がった文士を前提にして直接牝判し始める。

 此の人は今でも文壇に籍を置いてる人で、人の面さへ見れば、君ねえ、ナチユラリズムがねえと、グヅリグヅリを始める人だ。
 神経衰弱を標榜してゐる人だから耐らない。来ると、ニチヤニチヤと餅を食つてるやうな弁で、直と自分の噂を始める。やあ、僕の理想は多角形で光沢があるの、やあ、僕の神経は錐の様に尖がつて来たから、是で一つ神経の門を突ついて見る積だのと、其様事ばかり言ふ。でなきや、文壇の噂で人の全盛に修羅を燃し、何かしらケチを附けたがつて、君、何某のと、近頃評判の作家の名を言つて、姦通一件を聞いたかといふ。また始まつたと、うんざりしながら、いやそんな事僕は知らんと、ぶつきらぼうに言ふけれど、文士だから人の腹なんぞは分らない。人が知らんといふのに反つて調子づいて、秘密の話だよ、此場限りだよと、私が十人目の聴手かも知れぬ癖に、悪念を推して、その何某が友の何某の妻と姦通してゐる話を始める。何とかゞ如何とかして、掃溜の隅で如何とかしてゐる処を、犬に吠付かれて蒼くなつて逃げたとか、何とか、その醜穢なること到底筆には上せられぬ。それも唯其丈の話だ、夫だから如何といふ事もない。君、モーパッサンの捉まへどこだね、といふ位が落だ。
 これで最う帰るかと思ふと、なかなか以て!君ねえ、僕はねえと、また僕の事になつて、其中に世間の俗物共を眼中に措かないで、一つ思ふ存分な所を書いて見やうと思ふといふ様な事を饒舌つて、文士で一生貧乏暮しをするのだもの、ねえ、君、責て後世にでも名を残さなきやアと、堪らない事をいふ。」(第四巻113頁)

 これは「平凡」の口を借りた四迷の感想である。四迷が立派な理想を持っていた点で偉大であったなどと考える批評には「後世にでも名を残さなきやあ」が「堪らないこと」だという意味が分からないだろう。この文士は一生貧乏暮らしをすることが後世に名を残すことで償われるなどと心にもないことを–そう信じているなら尚更のこと–を言う点で俗である。

 貧乏生活を後世の名誉で償ったりできるものではない。後世の名誉は成果によるのであって貧乏によるのではない。したがって貧乏生活は成果によって現世的に償われ、後世の名誉は結果として付髄する。成果をぬきに貧乏生活と後世の名誉を直接交換しようとするのは、現代書くこと研究することにおいて償われることを知らないからである。貧乏でなくならないかぎり現世では償われないと考えているからである。これは、書くことをつまり書く内容を内的衝動としてもつことのできない、後世に残るほどの大きな課題の解決を内的課題として持つことのできない、書くことで出世だけを望んでいる文士の感覚である。

 社会が発展するとともに様々の階級の一般的利害を多様な場面で守り弁護するための文士が大量に必要となりまた養うことができるようになる。実業界、政界、官界等々でと同じ成功の可能性が文学の世界にも–日本では文壇と言う腐った形態で–生まれ、富と名声を内的欲求とする文士が才能とは無関係に多数生産される。

 文士は例外なく特定の階級の一般的利害を思想的に代弁することを仕事にしている。後世に残る仕事とは後世を構成する重要な要素になることであり、それは先進的階級の一般的利害を自己の利害とし思想として表現することである。彼の内的欲求に最終的充足などあり得ないが、社会的矛盾の現実的解決に積極的に関与することで最も豊かに充足される。充足されることによって後世に残る。だから貧乏生活と引き換えに後世の名誉を求める必要はない。貧乏生活と引き換えにできるのは、豊かな生活に対するよりも大きな欲望である、思想的現実的成果を獲得しようという欲望の充足である。

 反動的階級のイデオロギーはこれと違って、ブルジョアの、金の、地位の弁護論であるから、文士は富と名声を内的欲求とすることで一般的使命を果たすことが出来る。彼らは反動的イデオロギー、つまり無内容、虚偽、軽薄、偽善等々によってのみ一般的使命を果たし地位と名誉を得る。イデオロギーの内容的成果は、あげる必要も可能性もなく目的にもなりえない。たとえ主観的に目的にしていたとしても「浮雲」の枇評がそうであったように無内容–これはすべて証明しなければならない–によってのみ、無内容が日本の先進的階級の思想的弱点にはまった常識的判断である時にのみイデオローグとして認められる。したがって、文士的出世が能力の証明となる。出世を内的欲求にしながら報われない文士がいくらでもいる中では現実的で力強い証明である。批評家は四迷、一葉、漱石らの天才もやはり文士として自分らと同じ欲望、使命を持っていると考えている。だから彼らがイデオロギー上の成果で報われ、そのために後世に名を残しているにもかかわらず、貧乏であったことが気の毒でたまらず、それが四迷等の才能や思想の限界、現実に対する甘さといったイデオロギーの質にかかわる問題に見える。ブルジョアイデオローグはブルジョア的成功で一般的使命を果たしことが証明され、ブルジョア的に報われる。四迷らはブルジョア的成功の批判者としてはじめてイデオロギー的に成功しているのだからまったく別の報われ方をする。

 諸矛盾の糊塗を目的とし内容を内的欲求にできない文士は、本来の目的である富や地位が得られない、つまり貧乏な場合は、実際にはあてにしていないしあてにできるはずもない後世の名誉を持ち出して貧乏生活を慰める。貧乏と後世の名誉をひきかえにするような文士は現実の富となら何でもひきかえにするだろう。つまり金になるならどんなことでも書く。ただブルジョアの役に立つ下らない一般性をさへなかなか発見できない–無内容だから偶然性の果たす役割が大きい–場合に、みじめったらしく貧乏と名誉を交換しようなどと言い出す。平たく言えば今は貧乏だがいづれ有名になってやろうという意味であって、こんな文士が偶然流行にはまって有名になったらどんな文士になるか想像に難くない。これは役人の昇、実業家の葉山の文士版である。

 文壇の出世主義者は仕事自身が無内容だから、昇や葉山の現象形態としての俗悪さだけをかき集めたような人物になる。俗な上に無力である。自慢をする、文壇の悪口を言う、神経衰弱が知的な証拠だと思い込んで標榜する、自然主義がどうのと文壇の話ばかりする。こんな文士に限って貧乏のかわりに後世の名誉をひっぱり出したりするのだから実際にたまったものではない。彼らはイデオロギーの内容つまり現実社会の基本矛盾に関心を持っていないのために、主義だとか自慢だとか悪口だとか貧乏だとか名誉だとか後世だとかについてグダグダ喋りながら出世の順番を待っている。四迷のような天才にとってはあまりにもバカバカしい退屈な人生である。ところが、こんな文士が現実的で、こんな文士を皮肉った「平凡」が四迷の自己懐疑だなどとたまらないことを言う批評家文士がたくさんいる。

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