三、「其面影」
四迷が再び小説を書くようになった直接的原因は経済的困難である。彼が再びイデオロギーの世界に帰り成果を残してくれたのは我々にとって幸運であったが、四迷にとっては実践活動ほどには気乗りのしない仕事であった。第十一回で「大分危ふくなった」(第七巻16頁)と書き、「十五、五回書いたばかりで忽ち感興が去つてしまひ、閉口致居候」(第七巻343頁)と書いている。
「浮雲」から「其面影」への十七年間に文三は大学講師の哲也に替わり、小夜子という理解者もいる。しかし文三と昇の対立と哲也と葉山の対立の社会的必然は変わっていない。人物の配置が確定して展開がはじまると運命が「浮雲」と同じ方向に収束するのが見えてくる。職を得ても、愛情を得ても、「浮雲」の必然性を克服できず、哲也の孤立化がリアリティとして浮び上ってくるのが四迷の作家的才能である。彼は「浮雲」から十七年を経ても「浮雲」を質的に越える新しい主題、題材を発見しておらず、そのために自発的には文学に復帰しなかった。しかし、もともと小説家として天性の才能に恵まれている四迷は「其面影」にも才能の命ずるままに全力で取り組み「浮雲」以来の研究成果を反映したすぐれた作品を作り出している。
「浮雲」に写実された基本的矛盾は解決されていない。しかし、諸関係は大きく発展して現象形態にいくつかの重要な変化が見られ、解決に一歩近づいている。「非職」の文三と違って哲也が大学の講師であっても葉山は昇と比較にならぬ程の力を得ており、哲也と葉山の隔たりは文三と昇の隔たりより大きい(1)。社会的対立の大きさは、一般にこのような相対的関係である。
(1)哲也の卒業論文は「賃金論」で「経済原論と貨幣学の講義を担任する」と書いている。作品の展開上意味を持つわけではないが四迷の関心の一端を示しており興味深い。
「浮雲」の主題が、昇と文三の対立によって文三とお勢が引き裂かれる過程であったのと同様に、「其面影」の主題は渋谷・葉山と哲也・小夜子の対立が哲也と小夜子を引き裂く過程である。ただ哲也と小夜子は、文三とお勢よりも強固な必然性で結ばれており、それに応じて引き裂く力も複雑で強力である。
哲也は優秀な成績によって将来を属望されていたが余儀ない事情のため学資が続かなくなった。この時外見は派手な生活をしていたがすでに家運の傾きはじめていた小野家が哲也の将来性を「公債よりは有利」と見て養子に望んだ。学問だけをたよりに身を立てようとしていた哲也はこれを受け入れた。哲也は将来ひとかどの仕事をすべく養子縁組を結んだが、公債がわりの身ではいいチャンスを持つ余裕はなく、当座の稼ぎのために教師になった。このことが哲也と時子の運命を決めた。時子や姑は従来通りの派手な生活を維持するために哲也が将来のために準備する暇も与えず、哲也はただ馬車馬のように教師をやらされる羽目になった。そして今は時子や姑の「けちな虚栄」を満足させるため命を擦り減らすだけの、生きながらの死と感じるようになっている。
小夜子も時子の父が小間使に生ませた子である上、父も死に夫にも死に別れて出戻となった今、継母と義理の姉のやくざな生活の世話に明け暮れている。身寄りのない彼女に投資はいらず、ただ家においてもらうだけの恩義でこき使われている。
時子と姑の「けちな虚栄」にこき使われ疲れ切った二人はお互いに同情し、安らぎを感じるようになる。哲也と時子・姑、小夜子と時子・姑の対立が大きくなるほど哲也と小夜子が近づき、二人が近づけば時子の嫉妬によって二人と時子・姑の対立が深まりさらに二人を近づけるという循環がはじまっている。
この動きはじめた循環=必然の原動力となっいるのは葉山と哲也の対立であり、この対立が循環を促進し、引き裂こうとする。「浮雲」の対立で昇がそうであったように、ここでもより大きな積極的力を発揮するのは葉山ないし渋谷である。
この循環にまず一般的にそうであるように渋谷や葉山の派手な生活が時子と姑の目を通して入り込む。時子は葉山の豪勢な生活を羨んで不満を募らせて哲也のふがいなさをなじり、一層の働きを求める。その結果哲也の不満になり、時子と対照的な小夜子の個性に一層安らぎを感じさせ、それが時子の不満と嫉妬をかきたてるという具合にこの循環に油をそそぐ。そして、小夜子を渋谷の妾にという話がこの循環に直接的な強力なインパクトを与えはじめ、この循環を限界まで発展させることになる。
渋谷が小夜子のような娘を妾にしたいと考えると葉山はその仲介を務めて渋谷の勢力にあやかろうとする。時子も当然自分の生活手投である哲也の出世のために小夜子を犠牲にしようとする。渋谷と小夜子の結びつきは偶然的である。渋谷はただ「ちょっとしぶ皮のむけた」貧しい娘を望むだけである。望む必要さえない。彼が望んでいるような、あるいは望むであろうような不幸な娘はいくらでもいるし、斡旋しようとする人間にもこと欠かない。葉山は渋谷に取り入ろうとしており、渋谷の妾に都合のいい条件をそろえた小夜子が偶然身近にいたことは絶好のチャンスである。さらに時子にとっては小夜子を妾にすることは厄介払いの上に申斐性なしの哲也を出世させるまたとない、降って湧いたような幸運である。
渋谷の勢力が大きいほど彼の欲望を実現するための手段は多様で偶然的になり、実現自体つまり小夜子らの不幸は必然になる。渋谷は自分の欲望を自分の勢力にあやかろうとする人間の欲望を媒介とし槓杆にして実現する。渋谷の勢力から遠く、渋谷にとって偶然的な関係になる人間ほど渋谷にあやかるチャンスは少ないから、そのチャンスを逃すまいと必死の努力をする。だから小夜子らにとってはこの媒介項が多いほど身を守ることが困難になり煩わしくなる。基本的な力は渋谷から発しているのであるから、一つの媒介項と戦っても力の源泉には何の影響も与えず、次々に襲って来る媒介項との戦いに力を消耗しなければならないからである。四迷は「其面影」でこの媒介項を「浮雲」から一歩進んで研究しており、しかも関孫上の順序をひととおり描いている。この媒介項のあり方が、日本資本主義の発展段階の具体的内容である。
まず渋谷が小夜子をてごめにしようとする直接的関係である。これは失敗に終わる。このような現象も特に後れた国や荒廃した国では無視できない大量的現象であるが「文明の今日にあるまじい」と書いているように個人的、偶然的関係である。媒介項を経ない直接的関係であるからその手口が野蛮とか犯罪的とかいうはっきりした対立形式をとり直接的反抗をひきおこす。対立関係は単純で敵がはっきりしている。しかし文明の進歩とともに手口=関係は複雑で錯綜した現象形態をとるようになり、本質的関係が覆い隠され対処の方法が難しくなる。
第二に葉山を媒介にする対立。この葉山と哲也の対立は「浮雲」の昇と文三の対立とは、立場の違いの大きさと小夜子の登場によって大きく違っている。「浮雲」の場合昇と文三の社会的、本質的対立が昇と文三の個人的対立の形式で現象していた。現象と本質を対立的に表現すれば、個人的対立が社会的対立を覆い隠していたということである。本質と現象が両者ともに対立形能を持つから本質と現象への区別が困難になる。「其面影」では、葉山と哲也は個人的には友情で結ばれているにもかかわらず、社会的、本質的対立が二人を分離している。本質と現象が対立的形態をとっているために、本質を抽出しやすくなっている。
昇が文三の復職に手を貸そうと言ったのは、可能性のないのを知っての、自分が勝利者であることを確認する嘲笑であった。葉山は哲也のために善意で忠告している。葉山はすでに大きな力を得ており、哲也が「人並の生活」をできるように出世のチャンスを与えることで彼は一層大きな利益を得ることになり、相対的対立は一層大きくなるからである。客観的にも善意であるのは「苟も金が儲けてえんなら人情なんぞ未練気なくさらりと棄てつ了うんだ」(224頁)ということ、つまり小夜子を渋谷の妾に斡旋することは実際に出世に有効な手段であり、また文三が復職を望んでいたように、哲也もまた出世を望んでいるからである。
昇や葉山だけでなく、文三も哲也も皆社会的に高い地位を占め豊かな生活をしたいと思っている(2)。渋谷が葉山の欲望を槓杆にするように葉山も哲也の欲望を槓杆に小夜子を妾にしようとしている。ところがこの社会的地位や豊かな生活は、その時代の社会的諸関係に規定された具体的内容を持っている。哲也が出世してまず獲得するのは、現在彼を苦しめ嫌悪させている時子と姑の「けちな虚栄」を満足させ、増長させることである。出世の家庭的結果はこれ以外にあり得ず、したがって哲也は出世を望んでいない。
(2)文三や哲也のこうした欲望を批判意識の欠如と考えるのは無知故の俗な潔癖でありいつでも妥協に終わる。抽象的目的をもって人間の思想ないし人格とする無知な作家がどんな人物像をつくりあげるかの実例を別稿の「社会小説論」に紹介している。四迷は常に具体的真理を研究するという驚異的才能を維持しており、はじめから現実的内容を示す手段の方に着目している。これもまた理想を否定する四迷の天才的思想の一端である。
出世の持つ社会的内容は、小夜子を渋谷の情欲の犠牲にするという手投に具体的に表現されている。文三が復職を望めば課長や昇に犬のように尾をふらねばならなかった。葉山の忠告に従って出世するには渋谷に尾をふるべく小夜子を妾にしなければならない。奴隷的になり、不幸な娘を犠牲にするといった手段をめざとく発見し迷うことなく実践していくのが出世である。葉山はそれをよく知っているから忠告している。しかし、それしか知らないから忠告するのでもある。
金儲けに理想や人情は邪魔だというくらいしか知らない葉山は、哲也の態度がはっきりしないのは小夜子を愛しているからだと考えている。さらに、人情や理想にこだわるからだ、と一般化している。「浮雲」で昇やお政が嘲笑的に言ったことを善意の忠告として言っている。しかし、葉山は小夜子に愛情を持つこと、こだわること、妾に斡旋できないことをもって人情だとか理想だとか言っているのだから、この忠告は無意味な同語反復である。昇や中村氏が文三の世界に入っていけなかったように、葉山も哲也や小夜子の世界に入っていけず入口で循環をはじめる。彼らは自分の無能ぶりに決して気付くことはない。
哲也が葉山にはっきり返答しないのは人情を選ぶか出世を選ぶかに迷っているからではない。文三が昇に媚を売るなど死んでもできないと感じていたように、哲也にとって小夜子を出世の犠牲にするかどうかについて考慮の余地はない。渋谷の話が小野家に持ち込まれた場合哲也が断れば小野家での小夜子の立場を一層悪くするから小夜子を苦しめずにすむ具体的な方法はないものかと悩んでいるだけである。葉山にとって出世のためなら小夜子の心などどうでもいいように、哲也にとって小夜子のためなら出世の断念などどうでもよい。成功とか出世とか理想についての理解の仕方が問題ではない。小夜子に対する愛情は現実の力となっており哲也はそれを前提し、そこから判断を組み立てる。葉山にはそれが理解できないから決断力の問題だと考えて無意味で抽象的な説得をしている。
さらに哲也が葉山の話にうわの空で出世を問題にしないのは本質的には小夜子に対する愛情のためではない。この点が哲也を理解する鍵であり、四迷の才能が遺憾なく発揮される要点である。哲也はこれまでに持った人間関孫によって、特に養子縁組以後「けちな虚栄心」に命をすり減らされてきた長い期間に構成された必然性によって葉山や時子らと全く対立的な運命、価値観、感情を持つに到り、それが哲也と同じ運命、価値観、感情を持つ小夜子に対する愛情として現象する。哲也の感情は彼自身の利害にもとづく内的必然であるから、自由に捨てたり仮面としてかぶったりできるものではない。葉山が出世を愛する人情を捨て切れず、したがって小夜子に対する愛情などどこにも形成されないのと同じである。小夜子に対する愛情を持つから出世を拒むのでなく、出世が必要とする手投、結果としての時子の生活を決して受け入れることができず、嫌悪している、ということが小夜子に対する愛情を形成した。葉山は小夜子に対する愛情など経験したこともないので、偶然的な、こだわらずにもおれる感情だと考えているのである(3)。
(3)「一旦捨てた人情を又拾い上げて人情の面つていふ奴を被るンです。尤も之を被り切ぢや不好え、臨機応変時の宣しきに従って、チョイチョイ此奴を脱ぐ。其處がソレ加減物でね、学者にや一寸お暁の行きかねる所だと馬鹿らしい程得意である。」(225頁)
哲也と小夜子の愛情は、葉山や時子が求めている出世や贅沢とは対立的である。こういう個別的利害から排除されている者に、排除され圧迫されていることによって生ずる一般的利害の反映としての感情である。したがって葉山や中村氏はこの感情を個別的、現実的でない理想という一般形式でとらえる。出世や金儲けだけが普遍的でなおかつ個別的な唯一の感情と思っている。彼らにとってこの感情は、個別的、現実性を離れた遠い存在である。ところが、文三、哲也、小夜子のように葉山の利害から排除されている者にとっては、この一般的利害は彼らの個別的利害と本質的に一致しているから、理想などではなくこれこそ現実的で内発的で切実で個別的で平凡な感情である。そして逆に出世や金儲けが小夜子への愛情とは違った、抽象的で非現実的なありうべき遠い理想の形式をとるのであり、葉山にとって小夜子への愛情がもつのと同じ位置を占める。「浮雲」で見たように昇とその弁護者が個別と一般の連関としての理論の世界に入れなかったように、高度の普遍性を持つ感情を葉山や渋谷は個別的内的感情として経験することができないのである。
昇や葉山、中村氏の考え方の無内容を証明することはできるが感情自体は感じとるものであって説明する必要はない。四迷は哲也や小夜子の高度の一般性を持つ感情を非常にうまく描いている。これが四迷の感受性の高さである。哲也にとって出世でなく小夜子との結婚に幸福があることは、小夜子の美しさや個性に魅力を–渋谷のようにではないが–感じとる者にとっては明らかである。また「品のない代わりに婀娜つぽい、意気がる者は妹をさしおいて此姉様を取らうも知れぬという人柄」(同上、236頁)の時子よりも小夜子を選ぶことを当然と感じる。彼女の美しさは、彼女を渋谷の情欲の犠牲にするなど耐え難いとする哲也の感情を自然にするだけの魅力を持っている。哲也のこの愛情や文三の感情を感情として理解できない場合、その下司な感情を理論化し理想主義だとか自意識過剰だとかいう小理屈を並べる。葉山や時子にとって出世を棒に振る哲也が「気の知れん奴」であるように、哲也には出世のために小夜子をヒヒ親父の犠牲にしたり、それを理屈化する連中の「気が知れん」のであって、全くお互い様であり、理解し合うことはない。
こうした高度の感情の描写は非常に困難であり、歴史的に形成された新しい欲望、新しい個性の発見という意義を持っている。葉山のような金と地位を持つ人間に対し非妥協的に批判的であるのは、哲也自身の内的必然=欲望にもとづいている場合だけである。出世が悪いという観念は出世欲にもとづいた嫉妬や痩せ我慢からでも生ずる。出世とは別の欲望が出世や出世の手段と対立するために出世を断念せざるを得ないとか主な関心でなくなるときにはじめて禁欲的形態を脱し現実的批判となる。現実に自分の欲望の根拠を見出す。文三の場合も卑劣なまねをしたくないという内約必然が形成されており–四迷はこれを「できたことは仕方ない」と非常にうまく表現している–お勢に対する期待となっていたが、お勢が昇にひかれる情勢であったため内的欲求は現実的対象を失い、やせ我慢とか理想主義と中傷されやすくなった(4)。文三のように非常に困難な状況におかれた人間においてさえも出世を拒否する内約必然を無理なく描くのは四迷の卓越した手腕である。
「社会小説」や「政治小説」にみられる観念的批判は、作者自身が高度の批判精神を形成していないために批判精神の日本史における具体的あり方を創造できず、批判精神の表明をもって批判精神にかえている。だから一般に非妥脇的精神の表明は声高であるほど批判精神の欠如を意味することになる。
(4)この批判精神が小夜子を愛情の対象として発見する、あるいは小夜子に対する愛情として現象するのであって、愛情が原因でないことがここからも明らかである。
哲也は葉山の忠告を問題にしていない。つまり、哲也の「出世欲」をあてに哲也と小夜子をひきさくことはできない。しかし葉山の忠告が時子の出世欲をテコにする場合無視するわけにいかず、どうしても直接対立しなければならない。ここには非常な困難がある。時子の出世欲だけでなく、哲也が出世のために結んだ過去の関係が出世の拒否を困難にするからである。
哲也が時子と別れ難いのは「慈悲でも何でも無く只気が弱くて今捨てたら母子は路頭に迷う、そんな酷たらしいことはできぬ」(266頁)からである。この気の弱さは時子や姑のやり方を嫌悪し小夜子を愛するのと同じ感情である。彼女達を路頭に迷わすことに苦痛を感じないくらいなら、わざわざ回り道をせず小夜子を犠牲にして出世すればいいことである。となれば時子との不和もおこりようがなかったことになる。哲也には葉山や時子の人生を意味する「そんな酷たらしいこと」はできなくなって、身寄りのない、出世の妨げになる小夜子を愛しているのであり、彼の一般的感情が、小夜子にも時子にも対象に応じた形態で発現しているのである。
「こんなに侮辱されながらも尚ほ辛抱していなきゃならん身の上、小夜さん世の中に義理程つらいものはないねえ」(同上、234頁)と哲也はしみじみ言っている。貧しい人間が生きるために「恩義」を必要とした場合義理に苦しめられる。小野家は学資を出すことで哲也の人生全体を縛る。学資は卒業と退学の落差の大きさだけの重みを持っている。小夜子は食をどうにか満たすだけの恩義で全生活を一分のスキもないはどすいとられている。他に生きる方法がないからである。貧しいほど小さな恩義で大きく縛られる。また、時子や姑にしても、義理人情をふり回すのは、彼女達が義理堅いからでも人情深いからでも考え方が古いからでもない。彼女達の家計は苦しかったから哲也のような貧乏学生に恩義という形で投資するしかなかったからである。時子も哲也も互いに相手を縛り自分を縛らせるような方法で破滅を避けるしかない。他の小説でも見かけるように、出世を目指して学問を得た優秀で貧しい人間が、貧乏人の世界から上流の世界へ抜け出す時に何らかの形で遭遇しなければならない人間関係である。哲也のような形態になるのは偶然であるにしても、小さな利害にからんだ義理人情につきまとわれるのは、後れた日本の日常的な一般的な運命である。哲也はこの非常に狭い可能性の中で恩義を受け、貧乏人の出世にしか投資できない人間とだけ利害が一致しているのだから、この義理人情を相手の破滅という、形成された人格に反する忘恩によってしか切り抜けることができない状況に立たされているのである。
哲也はこの義理人情の本質を深く理解している。文三と同じようにはっきりしない態度、性格と見られるものが哲也の場合も彼の立場と認識力によることが描写されている。「浮雲」では文三のすっきりしない態度に対する昇やお政の明確さがどんな一面性、無能を意味しているかが描写されている。「其面影」では葉山の無能だけでなく、小夜子の善良さにも対立させて哲也の認識力を一層深く描写している。
哲也は自分と時子を結びつけたのが利害であり今や利害だけであること、そして対立もやはり利害から生じていることを知っている。時子や姑にとって哲也は生活のための手投であるから手投が哲也である必要はないが他に手段がないから我慢している。哲也は手段として消耗させられることを嫌悪しているが、手段であるからこの関係から抜け出すことは生活手段を奪うことになる。この義理から抜け出せないのは、金のない人間同士の利害によって生じた感情であるために、この感情から解放してくれる金を獲得するのが容易でないからである。哲也と時子にとって互いに愛情は問題にならない。したがって時子と哲也の関係に小夜子は関係ない。哲也は「何も貴方に関係したことじやない」(285頁)と言っているし「姉様は僕を生活上の必要な道具とみているだけで些とも夫婦の情愛なんぞは無いんだもの、別れたって生活に因りさへしなきや夫れで何の苦痛の無い筈なんだもの」(285頁)と言っている。哲也にとって小夜子との関係は、哲也と時子の関係の外で結果として生じたことがはっきりとしている。したがって、大陸行きの話が哲也にとっては願ってもない解決法になる。彼はこれによって「身辺一切の葛藤を超越して、自由の新生涯に入ることを得るはず」(347頁)だと考えている。
哲也の考える唯一の解決法は見つかったが実現されない。この方法の阻害も、「脚色の模様」により非常にうまく描かれている。文三の場合お勢との結婚をほのめかされた直後に免職になった。ここでも解決法が見つかった直後に破滅への社会的必然が動きはじめる。哲也は狂喜のあまり用心を怠って小夜子の下宿に行き、居場所をつきとめられてしまう。このような偶然によって、哲也と小夜子の対立という必然がよどみなく流れるように工夫されている。
小夜子は哲也と違って結びつきや対立の原因を愛=感情に求める。小夜子は葉山や時子と同じように家庭不和、つまり哲也と時子の対立の原因が哲也の自分に対する愛情だと思い、時子と哲也を切り離せないのは哲也の未練だと考えている。
「私が居なかつたら此様な事に成らないと思つてるんですわね」
「…そう誤解しているかも知れんけど」
「誤解でせうか?」
「誤解さ」哲也は遂に「誤解でせうか」の意味を聞かずに了つた。(346頁)
哲也にとってこの誤解は解決済みのことであったからあえて聞かなかった。しかし、この誤解についての対立が第六十五回からはっきりしてくる。
小夜子の決断と哲也の「不決断」が対立する六十~六十五回は四迷の面目躍如として非常に面白い。このような展開は非常に困難な課題であるが、四迷が長年取り組んできた中心課題であり、すでに理論上解決済みの内容であるから腕のふるい所であった。だから正確に、しかも軽快に仕上げている。
時子と別れるのが難しいのは未練からではない。哲也の言う人情は時子に対する愛情ではない。それを説明することが時子や小夜子の「誤解」を解くことである。しかし四迷はここで誤解を解かず「論破しようと思つたが急に言葉が見つからなかつたので」(352頁)とごまかしのせっぷんを描いている。ごまかしたのは次のような会話に続くべき部分である。
「迷つてらつしやるわ…八年もつれそつては分れるのが無理なんだわ」
「無理だつて何だつてもう斯ふ成つちや後へは引けんじやないか」
「だつてそれじやあ行きがかりになつてしまふわ」
「行懸かりだつて何だつて、心にも無い事を為るのじやないから好いじやないか」
「厭だわ私」(351頁)
小夜子の真剣な訴えをせっぶんでごまかすとはあまりに出来の悪いごまかしである。しかしそれ以上のごまかし方があるわけでもない。四迷が「論破」という言葉を使っているように、小夜子の誤解を解くには長い、決してすっきりとしない説明をしなければならない。哲也と時子を結びつけ対立させた事情が小夜子との結びつきを生んだこと、その必然が「斯ふなつちやあ後へは引けん」というような、「行きがかり」となるほどの彼の人生全体を規定する流れであること、この流れの中に彼の日々のしかし連続的で必然的な決意が流れていること、「行きがかり」は彼の決意の弱さではな、自然な、変更することのできないほど強固な必然を意味していることである。しかし、性急な、単純な解決を望む小夜子の理解を得ることも感情を静めることもできず、せっぷん以上に出来の悪いごまかしと思われたであろう。それは現状の説明であり何ら解決ではなく、時子に対する未練はないが人情で別れ難いという結論に終わる。小夜子はこの結論を哲也の未練によると考えている。つまり哲也の考え方を全く認めていないのだから、長い説明も未練の弁護としか考えられない。哲也の考えは理解されず、どんなやり方も「出来の悪い」ごまかしと小夜子には見える。それは哲也と小夜子の内的必然の対立によるのであり、小夜子は哲也を理解していないために自己流の決断を求めている。