C 近代的自我史観の批評
中村氏の批評は私生活を舞台にしている。近代的自我史観の舞台は歴史である。だからここでは「浮雲」の分析を歴史的側面から補足することになる。
この小説の画期的な新しさは、「条理」が大切だという形での近代的要求をひそめていたため、体制がわとその秩序から余計物として疎外されて苦しむ孤独な一知識人文三を濃密なリアリティにおいて造形した、というところにある。時代にたいする二葉亭の鋭い批判的対立とそれによる内面的緊張が、このような苦悩する文三への共感と批判とによるイメージを活気あるものにするとともに、文三を苦しめるがわの具体的人間像とその関係を、小説的な活気ある展開においた。近代的人間の鋭い自覚的な要求の立場から「人生問題の全般的」な検討をめざしたこの作家は、多くの作家が現象の海に溺れまたは波の表面をただよったのに対して、その底にひそむ深い真実を追及し、まったく新しいイメージと形象をもった「浮雲」によって近代文学を生誕させるとともに、そのごの日本近代文学の発展の基本的な筋道を開いたのである。 (小田切秀雄「二葉亭四迷」岩波新書119頁 1970年)
四迷の文学史的意義が、近代的自我史観特有の分かり難い言葉で書かれている。分かり難いのは内容が難しいからてなく、量的規定ばかりで理解すべき内容がないからである。この形式性は近代的自我史観の本質的特徴である。
…これが、第二篇から第三篇へかけて、ドストエフスキー的なものが加わってくるにつれ、いっそう個人的なものとの肌のふれ合いが密接になり、反対に、官僚機構との関係は次第にあわあわしくなってゆく。そして、欧化政策の申し子であるお勢という自己のないうき草のような女性にたいする、まったく一方的な恋心を自意識過剰的に動かしてやまない、そういう一種の恋愛小説としての形が大きくできあがってゆく。いいかえると、恋愛小説的な面が、つよくふくらんでくるにつれて、官僚機構へむかって開かれていた眼がだんだんと細目になってゆく。非職というような重要なモメントが「当世書生気質」の中の一人物におけるように、ほとんど問題にならないふうに取り扱われているのとはちがい、大きなものになっているが、しかも、実際は恋愛的苦悶への契機としての比重が重く、官僚機構への批判に関係してゆく契機としてのひろがりにとぼしいうらみがなくはない。(稲垣達郎『文学革命期と二葉亭四迷』岩波講座文学 4 89頁 昭和29年)
これは「浮雲」の評価である。同じように量的でとらえどころがなく、「浮雲」の内容に一歩も入っていない。中村氏が「浮雲」に昇の出世と文三の破滅だけを見たように、稲垣氏は非職と恋愛だけを読みとっている。
稲垣氏は出世と恋愛といった人情世態の背後にある、諸現象の連関としての本質=アイデアを分析するのではなく、現象を二つに分けている。展開の前提として触れただけの役所の描写や非職を「官僚機構の批判に関係してゆく契機」とし、お勢との関係を「恋愛的苦悶への契機」とし、前者を作品の価値と考え、この批判が「ふかく全面的にひろがり、貫かれないで、まつたく適切な主題が、ねじれ、濁っていったのはいかにも残念だ」(同上)とあるように、作品の価値を可能性としてだけ認めている。作品は否定的に評価され、それを時代の反映として説明することが批評の課題になっている。中村氏との違いは、作品の価値を社会的批判意識のレベルによって規定しようとしており、(1)文三ないし「浮雲」の弱点を非社会的である点に認めた後、ここから昇の肯定に引き返す(文三の意義を規定できない以上このような傾向なしにはすまされないが)のでなく、この弱点を社会的批判意識の獲得によって克服しようとしていることである。このために「浮雲」を否定的に評価する点で中村氏と共通しているものの、昇に対してより批判的な層のイデオロギーとしての地位を獲得している。
(1)失敗を作品内部で説明しようとする視点は評価できる。中村氏は失敗を分析せず、失敗を前提にして失敗の個人的・社会的原因を物知りふうに並べるだけである。
近代的自我史観が、中村氏流の私小説的批評に対立する一つの潮流をなしているのは、「浮雲」に、「官僚機構への批判に関係してゆく契機」を発見したことによる。これによって社会的批判意識の獲得というより高い観点から「浮雲」の可能性と限界を規定しているような外観を持つが、この発見が近代的自我史観全体のつまづきの石であり、彼らの無批判的で量的規定の基礎となっている。
「浮雲」が稲垣氏の言う「一種の恋愛小説」でないことはすでに明らかである。四迷は昇と文三、お勢のような人間関係が日本の青年男女を捉えはじめあらゆる知識人にとって克服すベき社会問題となった時、非職を「恋愛的苦悶」の契機とすることによって、この日常的現象の社会的本質を捉えた(2)。四迷の天才だけがこの現象の本質を捉えたのは、この現象が知識人を刺激してやまない普遍的現象でありながら、多くの理論的蓄積を経たはずの半世紀以上も後の批評が単なる恋愛的苦悶だと片づけているように、この現象の社会性=歴史性を明らかにするのが非常に困難だからである。
(2)非職が恋愛的苦悶の契機となっているために、昇と文三の社会的立場の対立が大きくなっており、それが文三の孤立化の過程を短縮して批判者の没落という社会的傾向を見やすくしている。
文三の苦悶はお勢との関係において社会的歴史的苦悶である。資本主義経済がひきおこす社会的対立は、例えば悪代官が若い男女の愛を引き裂くとか「自由主義の圧政家」の課長が平役人を首にするといった特定の非人間的行為として直接に現象するものではない。資本主義の成立期には非人間的暴力が大規模に用いられるし発展の後も必然的随伴物となるが、資本主義が自分の足で歩きはじめれば価値法則が自然的強制力として人々を支配するようになる。非人間的暴力も経済法則によって発生し、経済法則への反作用としてより多くの社会的意義を獲得する。社会的対立のメカニズムは現象の背後に沈み込み、あらゆる現象は恋愛であろうと政治であろうと本質たる経済法則に還元されることによってはじめてその社会性歴史性が理解される。
文三の苦悶の背後には、貨幣制度の確立や鉄道・通信網の整備、大規模な工場建設がある(3)。文三一家のような旧士族の大部分を没落させて孫兵衛に小金を集め、「浮雲」には登場しないが文三的苦悶に深い連関を持つ農民層の分解も進んでいる。このような社会的背景の中で、昇は非人間的手段を一切必要とせずに、団子坂の課長婦人の華美や金持ちの商人と結婚する娘の得意顔に刺激されるお勢自身の欲望を手段にしてお勢を文三からひき離し、文三の恋愛的苦悶を生むことができる(4)。四迷は新しく生まれた複雑な社会関係を描写する必要を「小説総論」で明らかにするとともに、「浮雲」の「恋愛的関係」の中にその一端を描いたが、稲垣氏は「浮雲」のリアリズムを理解しなかった。
(3)文三の苦しみは、これらの全過程と連関している。文三の都合に合わせて鉄道や工場を建設するわけにいかない。逆に文三の意識を鉄道や工場の建設に合わせ、活路をこの過程に見出すしかないし、また見出せるものである。
(4)昇は出世のために卑劣な手段を必要とするが、結果としての出世が自然的力を発揮してお政やお勢の肯定的評価を生む。だから、昇に対抗するには昇を正当化するこの自然的力のメカニズムが解明されねばならない。
批評は「浮雲」を「恋愛的苦悶」と「官僚機構への批判に関係してゆく契機」の二つの現象に分けることによって、「恋愛的苦悶」の社会的本質を分析する可能性を失ったばかりでなく、それが広範な社会問題であることすら理解できなくなっている。社会問題を「官僚機構への批判に関係してゆく契機」に代表させてしまったからである。一つの社会での現象を社会的と非社会的に分離すること自体無理な設定であり、このような前提の上で歴史的、社会的用語を並べて、作品の「歪み」や「混濁」の必然性を説明しようとするのは無駄な努力である。
では彼らが発見した「官僚機構への批判」とは何であろうか?彼らが非社会的と考えた「恋愛的苦悶」は日本史が生み出した最も深刻な社会問題であった。他方、批評が高度の社会的批判意識と考える「官僚機構への批判」は、実はまったく無批判的な、彼らの言う非社会的批判意識である。結果はすべて彼らの意図とまったく逆になる。
園田家でのお勢をめぐる昇と文三の対立も、官僚機構を舞台にした政治的対立も、いずれも社会的現象であり、共通の本質である経済的構造=土台に対する上部構造である点で共通している。二つの現象の違いは、土台に対する反作用の大きさにある。日本の歴史をどのように発展させるかがもっとも集中的に問われるのが政治である。政治から離れる度合いに比例して反作用の力も小さくなる。あらゆる現実問題の本質的解決とは歴史の発展に他ならないから、闘いや苦悶の質は、この反作用の量によって測られる。例えば昇の俗物根性やお政のいやみ、お勢の軽薄との直接的対立は、彼らの意見や行動と相殺され、反作用が無限に小さくなるために非生産的で消耗的である(5)。
(5)この側面から言えば、中村氏の批評の役割は(中村氏の意図ではない)四迷の思想を昇に対する道徳的批判というできるだけ土台から遠い地点に祭り上げて反作用の力を限定することにある、ということができる。
しかしこのことは、官僚機構に対する批判がより社会的で高度な芸術的主題だとする稲垣氏や小田切氏の結論には結びつかない。全く逆である。
私的、個別的で非生産的で消耗的であること、社会的広がりが極度に限定されていること、等々の言葉で表現されるこの状況自体が、日本における最も大きな社会的歴史的問題である。何百万、何千万の人間が、無視することも逃れることもできない非生産的、消耗的対立の中に分散させられているのが日本の歴史的必然であり、したがってここからの脱出が、何千万の人間に共通する普遍的歴史的テーマになっている。
個別的私的分散的対立が、一般的で必然的であるとは、社会的階級的対立が未成熟であること、逆に言えば社会的階級的対立が、私的個別的対立に覆い隠され埋もれているということであり(6)、それが俗物の昇的形式、軽薄のお勢的形式、それに対する文三の道徳的批判形式という「日本の青年男女」に特徴的な精神形態となる。これが「浮雲」の写実であった。さらにこのような卑俗な対立形式を克服する唯一の方法は、この対立形式を歴史の必然にそって、その本質である社会的対立形式へと発展させることであり、その過程が「浮雲」の展開であると同時に、その現実的展開に対応する意識形態をも、第二篇の道徳的批判形式から、第三篇の認識への発展という形で写実しているということであった。個別的対立形式を脱出する唯一の方法は、個別を個別内部の本質の発展によって克服することであり、したがって主体の対応は、その発展を促すために、その本質の科学的認識を不可欠の条件とする。ここに歴史の必然と自由の一致点を見いだすことが可能になる。
(6)「多くの人がロシアと日本の社会事情が似てゐると云ふ風な事を云ふが、どちらも人間の社会だから同じやうな因果律が起伏してゐるに違ひないが、違ふ事は大分違ひますね。これは一般的の話だがまづロシアの社会にはソーシヤリズムの思想が餘程前から行き渡つてゐる。個人主義なんてものは比べると微々たるものさ。そして例へば普通のブールジュワ(日本で云へば一般俗衆)と精神的労働者(日本で云へば腰辨、文士等)との争いと云ふ風に衝突がすべて階級的だ。それで団体の中に個人が没却されて別に不平を感ぜぬのみか皆その団体の為に働いて厭う所がない。」(第五巻264頁)
政治が経済の集中的表現であり、土台に対する決定的反作用の力をもち、あらゆる個別問題の決着をつける場所であることは、本質的解決のためには、個別問題における批判意識を政治的批判意識まで高めるべきであることを意味している。政治的解決が個別的問題の本質的解決であるというのは、個別的問題の本質が現実に政治と関連しているからである。政治も「恋愛的苦悶」も等しく上部構造であり、各々は共通の本質である土台に規定されており、普遍的歴史的関連を土台において現実に持っている。個別問題で発生する批判意識を政治的批判意識へ高めるというのは、個別に対する道徳的批判から個別問題の本質へ、それを決定する経済的諸関係へと認識を深めることであり、個別問題の本質的分析は現実の連関によって高度の政治意識へ発展することが保証されている。したがって、批評の言うように「恋愛的苦悶」を捨象して、政治ないし官僚機構の批判に眼を向けることは、実は個別問題と政治との連関を、そして個別における批判意識から政治的批判意識への発展の可能性を見失うことになる(7)。
(7)このような思想的弱点は、文学や私生活を軽蔑し政治的意識性を誇る俗物的個性としても現象する。思想的無能が政治的無能で補足されて思い上がりとなるために、どんな分野でもロクな役割を果たさない。一般的無思想の基盤の上に、政治主義や文学趣味の俗物がはびこる。
政治が個別的問題の本質的解決を促進するための、経済の集中的表現としての上部構造と捉えられるなら、文三の「恋愛的苦悶」のような普遍的現象を克服する唯一の道は資本主義の一層の発展であるから、官僚機構に対する批判もこの観点からなさるべきである。官僚機構の政策が資本主義の発展に対してどのような関係になっているかが分析されそれに基づいて批判と対策が考えられねばならない。これが官僚機構の批判の内容となる。
したがって個別問題における批判も、官僚機構に対する批判もまったく同じ課題であり、両者が資本主義の発展という観点から分析され、共通の土台の分析が各々前提される。そして資本主義的諸関係があらゆる関係を自分に合わせて改造して行く過程は、同時に個別問題と政治問題のかかわりをより緊密にし明らかにする過程である。個別的対立が社会的対立として現象するようになる(8)。現実的に資本主義諸関係が引き起こすあらゆる個別問題が、政治へと集中する条件が整う。
(8)日本のアイデアの特徴は、発展が未熟で媒介項が多く、相対的独立性も強いために、アイデアとフォルムが区別されず、アイデアがアイデアとして発見しにくいことである。歴史の発展は基本的対立の媒介項を整理する。文三と昇の対立の媒介項であリ、クッションであり、苦しみを個別化し複雑化し倍加するところの、お勢の軽薄、お政のいやみ、昇の俗物根性等々とのいざこざを整理し、彼らとの対立を階級対立に拡大するのが、いざこざの歴史的解決である。このいざこざが避けられない段階では、これを基本的対立から派生する部分的対立として理解し対処することが、主体に可能な最も合理的方法である。このアイデアとフォルムの関係を任意の歴史的段階で正確に描写するのがリアリズムであり、フォルムにかかずらわっているのが三文小説である。